こわいもの
「アルド」
背後からかけられた自身の名を呼ぶ声に、アルドはびくんと肩を跳ねさせた。
恐る恐る振り返った先には、そよ風にさらさらと揺れる綺麗な赤い髪が見える。振り返る前から分かっていた。だってそれはもう随分と長く共に戦う仲間の声だったから。間違う筈がない。
振り向いたアルドと目が合ったネロは、僅かに目を細めるとこちらへと近づいてきた。すらりと伸びた長い足が一歩踏み出すたびに、二人の間に横たわる距離がぐっと縮まってゆく。
一歩、二歩、三歩。あと数歩で、触れ合えるほどの距離まで近づいてしまう。
視界の中、ぐんぐんと大きくなってゆくネロの姿に思わず後退りそうになるのをどうにか堪えて、アルドはいつものように笑う。笑った、つもりだ。
けれど、本当にうまく笑えているだろうか。本当に、いつもの顔を作れているだろうか。分からない、自信が無い。
緩めた筈の唇がぎこちなく強ばっている気がして、無意識のうちに伸びた指が、唇の端をそっと押し上げていた。
誤魔化すように、取り繕うように、気取られぬように。
ここ最近、どうしてだかアルドはネロのことが怖い。
最近、といっても、四六時中いつも怖いわけじゃない。戦闘の時、敵を挑発する好戦的な様子や、容赦なく拳を叩き込む姿はちっとも怖くない。殺気混じりのピリピリとした空気に当てられれば、こちらの気分も高揚するしほどよい緊張感があって気持ちが引き締まるから、怖いどころか好ましいとすら思っている。
仲間たちといる時のネロも、怖くない。優しい言葉だけじゃなくって、にこやかに苛烈な毒を吐くこともあるけれど、基本的にネロは穏やかだ。無闇と感情を荒立てて積極的に誰かに喧嘩を売って回ったりもしない。誰が相手でも変わらぬ様子で言葉を交わし、誰とでもそれなりにうまくやっているように見える。
それでも時々はネロの矜恃と誰かの主張がぶつかる事もあって、仲間内の空気が険悪になる事もない訳ではなかったけれど、それでもやっぱり怖くはない。困ったなあ、とは思いはしても、怖いと思うことはちっともなかった。
怖い、と思うのは、こういう時だけ。
仲間たちは少し離れた場所にいて、ネロとアルドの二人きりだけになった時。
怒っているようには見えない。むしろ機嫌が良さそうに見える。そういうネロに見つめられて、名前を呼ばれた時。何よりもまず先に、怖い、と思ってしまうのだ。
正確には、怖い、とは少し違うものかもしれない。
アルドの知っているものの中で一番それを表すのに近かった言葉が、怖い、だっただけで、もっときちんと表そうとすれば、怖い、からちょっぴりずれてゆく。
心臓をぎゅっと掴まれて、胸の真ん中にずしりと何かがのしかかったような感覚。体の内側を冷たいもので撫でられて、喉の奥に粘った塊を押し込められたような心地。落ち着かなく心臓が騒いで、強敵と相対した時のように背筋に寒気が走り、鳥肌が立つ何か。
それなのに飲み込む唾はやけに熱くて、こめかみにはじわりと汗が滲んでゆく。締め付けられた心臓がどくどくと騒いで、どくんどくんと耳の奥で己の鼓動が響く。体の表面をさわさわと羽で撫でられたようにむず痒くって、胸に爪を立てて思い切り掻きむしりたくって仕方ない。
今すぐに逃げ出してしまいたいのに、だけど逃げ出したくなくもない。寒いのに暑くって、気持ち悪いのに不快じゃない。
冷たいだけなら恐怖とそのまま置き換えられたのに、混じる熱とくすぐったさが、それが恐怖と別物であるのだと教えている。けれどそれが何なのか、相応しい言葉が見つけられない。
だからアルドはそれが、怖い。
何かきっかけがあればまだ良かった。そうなった原因に心当たりがあれば、改善する手がかりも方法も掴めそうなのに、何も分からないから困っている。
以前はそんなことなかったのに、気づけばそれはアルドの中に居座っていた。時間を置いても一向に改善する気配はなく、むしろ悪化の一途を辿っている気がしてならない。最初のうちは至近距離でネロに名前を呼ばれなければそれは顔を出さなかったのに、今は離れた場所から呼ばれただけですぐに反応してしまう。
予想通り、あと数歩でぴったりとアルドの前までやってきたネロは、怖い顔なんてしてもいないし、瞳に剣呑な光を宿らせてもいない。いっそ慈愛にも似た色の滲む柔らかな表情を浮かべている。他の誰かが浮かべていたら、機嫌がいいんだなと思える顔をしたネロは、やっぱり怖い。怖くってたまらない。既にちりちりと肌が泡立つような怖気が足先から頭のてっぺんまでざざざと這い上がってゆき、胸の奥でぐるぐるとよく分からない塊が渦巻いて暴れている。
けれどそれを悟られたくなかったから、何気なさを装ってどうしたんだネロ、と笑おうとしたのに、ネロがこちらへと向けて手を伸ばしてきたから、ひゅんと身体が竦んで紡ぎかけた言葉が喉の奥で凍る。
近づいてくる指先を見ていれば、ますます落ち着かない気持ちになって、喉の奥で凍った言葉が融けて悲鳴になってしまいそうだったから、思わずアルドはぎゅっと目を瞑った。
それとほぼ同時。頬に指先が触れる感覚があって、ごくり、いつの間にか口の中に溢れた唾を飲み込もうとしたのに、うまくいかなくって空気ごと胃に送り込んでしまう。ただでさえ押しつぶされたように重い体の真ん中、小さな空気の塊がゆるりと下がってゆく感覚がありありと伝わってきて、少し気持ちが悪い。
ネロは何も言わない。けれど僅かに空気が揺れて、さざめくように笑う気配があった。
頬に触れた指先は離れることなく、ゆっくりと動いて耳の裏をくすぐるようになぞり、跳ねた髪を掬って耳にかける。癖の強い髪は一度では大人しくならなかったのか、何度も何度も撫で付けるように耳の裏を掠める指先は、くすぐったくて落ち着かない。アルドは目を瞑ったまま、ぐっと足を踏ん張って唇を引き結ぶ。そうでもしないと、おかしな声が出てしまいそうだった。
やがてようやく想定通りに耳に髪がかかったか、ネロの指の動きが止まり、軽く耳たぶを摘む。触れられて撫でられて形をなぞられるうち、すっかりと熱く火照ってしまった耳たぶには、ネロの指先はひんやりとしていて心地よかった。
「アルド」
視界を閉じるうち、随分とネロの顔が近くに来ていたらしい。耳のすぐ横、声で耳たぶが震えるほどの距離で、名前を呼ばれる。まるで頭の中に直接声を注がれたようで、体の中がネロの声でいっぱいになる。
反射的にびくんと震えた体を誤魔化すように、びしっと背筋を伸ばして僅かに反り返れば、くすくすと笑う声、吹きかかる息で耳を擽られ、ぞわりと背中に蠢く寒気に似た痺れを逃がそうとしていれば、笑い声は少しずつ小さくなってゆき、触れていた指も離れてくれた。
おずおずと目を開けると、一歩分の距離を開けた所に変わらず微笑むネロがいる。
けれどさっきはあんなに怖かったのに、もうちっとも怖いとは思えなくって、アルドはほっと息を吐き出してまじまじとネロを見つめた。
何か特別変わった所があるようには思えない。微笑みには慈愛の色が混じっていて、瞳は穏やかに煌めいている。目を瞑る前に見たネロと同じだ。
何も変わっていないのに、突然恐ろしさを感じなくなった理由が分からなくって、重苦しく締め付けてのしかかっていた負荷をいきなり取り上げられ、軽くなった心に新たな疑問が小石のようにぽんと投げつけられる。
二人きりの時のネロは、いつも怖い訳じゃないからそれにも困っている。怖かったのにいきなり怖くなくなって、怖くなかったのにいきなり怖くなる。その差異を目では見て取る事が出来ないから、急にやってくるそれへの心構えもうまい対応もとることができない。
いっそ、ネロ本人にそれを打ち明けてしまえれば良かっただろう。いつものアルドなら、きっとそうしていた筈だった。なのに言えずに心の内に留めたままなのは、仲間に対して恐怖に似た気持ちを抱いているのが後ろめたかった事もあったけれど、一番は。
それをネロに伝えてしまったら、もっと怖い事になってしまいそうな、漠然とした予感があったから。それが何とも分からないのに、いよいよ引き返せなくなってしまうような、分厚い霧の先を覗き込むような不安があったから。
「ほら、ついていたよ」
「……ああ、ありがとう」
無言のままじっと見つめるアルドに、ネロはひらひらと指先で摘んだ何かを見せる。形の良い長い指に挟まれたのは、茶色く変色した一枚の枯葉。
内に生まれる恐ろしさについての説明は未だ出来ないままだったけれど、ネロが手を伸ばした理由については納得出来た。けれど、そうだったのか、と頷く中にどうしてか腑に落ちない部分、がっかりしたような物足りないような寂しいような、不満に似た気持ちを新たに見つけてしまった。
どうしてそんな事を思ってしまうのだろう。自分の中にまた一つ分からないものが生まれた戸惑いでアルドが首を捻れば、一歩、ネロが距離を詰める。
「鈍いくせに敏いね、君は」
直前までは怖くなかったのに、それはまた怖いものに変わっていて、蕩けそうなほど優しくて甘いのに、とても怖い声でネロが、耳に寄せた唇でそっと囁く。
ぞわり、背筋をはい登った寒気にアルドが体を震わせる前、ちゅ、と音を立ててネロの唇が、耳に触れる。
寒くて、怖くて、恐ろしくてたまらないのに、唇が触れた場所が熱くてたまらない。
ぶるり、ようやく震えた時にはもうネロは離れていって、くるりと背を向けて何事も無かったかのように離れた場所にいる仲間たちの元へと歩いてゆく。
アルドも行かなければならない。仲間たちが待っている。いつまでもここに突っ立っている訳にはいかない。
分かっているのに、足が動かない。指も、手も、麻痺したように痺れて固まってしまって、いくら動けと念じてもちっとも言うことを聞いてくれない。
ネロの声が、まだ耳元で響いている気がして、低い声がぐしゃぐしゃと体の中を巡って苛んでいる気がして、こわい、唯一動いてくれた唇の形だけでぽつり、呟いたアルドの顔は、髪を引っ掛けて露わになった耳たぶまで真っ赤に染まっていた。
全く、楽しくって仕方がない。
指に挟んだひとひらの枯葉に唇を寄せたネロは、ぐしゃり、手の中でそれを握りつぶすと、粉々になった残骸をそよぐ風に乗せて飛ばしながら、くつくつと笑う。
思い悩む人の心には目敏く気づいて寄り添うくせに、あからさまな好意にはひどく鈍いアルド。彼の中に好意は未だ一種類しか存在しておらず、誰かから向けられる好意もそれと同じだと思っている。
そういうものがあると頭で理解しても心はまだ追いついていなくって、向けられた好意に戸惑いつつも伝え聞いた知識だけで賢しくも宥めてみせても、本当のところは何も分かっていない。
しかしそれも、ある意味では仕方のないことだとも思う。周りで見ていても分かりやすく彼に向けられたいくつかの好意は、可愛らしくて優しいものばかりだったから。綺麗な恋心に、あからさまで生々しい肉欲を乗せたものは見えなかったから。
気づいたのはたまたまだ。
ユニガンの街の近く、絡んできたゴロツキがじろじろと寄越した視線はいやらしく粘っていて、あけすけな性欲は仲間たちにも、アルドにも等しく向けられていた。それを受けたアルドの体が、ふるり、僅かに警戒するように震えたのを見た時に、理解してしまったのだ。
心は何も分かっていないくせに、無意識のどこかではきちんと分かっていることを。
だからネロは、それを抑えず向けてやる事にした。二人きりの時、アルドにだけ伝わるように。視線に、言葉に、仕草に、彼へ抱く気持ちを全て乗せてやる事にした。
悪いとは微塵も思っていない。無理強いや独りよがりが過ぎたものはネロの美意識に反するけれど、全ての生き物の本能に根付くそれ自体を、悪しきものだと思ってはいない。適量の肉欲を伴う好意は、過度に忌避するべきものではない。
気づかなければそれでいい。それならばアルドは悪意を伴うそれに敏感だということだろう。
けれど彼は、気づいてしまった。ネロが向けたそれに、敏く気づいて拾い上げてしまった。
無垢な形はそのままに、向けた視線がゆるりとアルドの心に染みてゆく様を見ると、ひどく高揚してしまう。本人ですらまだ自覚していない感情の奥底に眠っている本能が、注いだ言葉で揺すぶられてちらりと顔を覗かせるのが愛おしくてたまらない。きちんとそれを持っているくせに、追いつかない心が恐怖の形をとって表情に浮かぶのが焦れったくて、けれど恐怖だけではなく恥じらいと戸惑いで揺れる感情を見つければ、無粋にも摘み取ってしまいたくなる。
急いてはいけない。まだ芽吹く直前、何も分からぬうちに強引に絡め取り染め上げてしまえば、ネロがアルドの中に見出した美しさが損なわれてしまうかもしれない。
幼子に乳をやるように、花に水を注ぐように、想いを注いで彼の中にあるものをゆっくりと育ててゆく。
手応えはあった。初めのうちは、僅かに戸惑ってみせるだけだったのに、明確にネロの行動に怯えに似た反応を示すようになって、時に頬を赤く染めるようになった。
きっとそう遠くない未来。
芽吹くであろうアルドの感情は、どんな形をしているだろうか。ネロが丹念に注いだ愛情を受けて育ったそれを、想像するだけで頬が緩む。
あと少し、もう少し。
その時が待ち遠しくてうっとりと目を細めたネロは、アルドに触れた指先で、アルドに触れた唇をつっとなぞる。
ちろり、舌を出て舐めた指からは仄かに、青々しく瑞々しい新芽のような香りがした。