夜の猫


ぎしり、小さくベッドの軋む音が真夜中の部屋の中に響き、うとうとと微睡んでいたレイヴンの意識が、引き抜いた糸のようにひゅっと浮上した。

(……アルドか)

耳を澄まさずとも聞こえてくる物音はレイヴンと同じ部屋、隣のベッドから聞こえていることは明白で、寝返りにしては落ち着かない様子で、ごそりぎしりと動き回っていたアルドは、しばらくしてベッドから抜けだし、ずるずると足を引きずりながら部屋を出ていった。

(小用だろうな)

寝付けなくて気晴らしに外の空気を吸いに行ったにしては、随分と足音が重く、まだ半分寝ているように思えた。ならばおそらくは、急にもよおして用を足しに行ったのだろう。今晩はやけに冷え込み、宿に備え付けの毛布一枚では少し心許なかったから有り得ない話ではない。
レイヴンは再び目を瞑って眠りにつくことなく、暗闇の中アルドが帰ってくるのを待つ。別にアルドに用がある訳では無いが、また物音を立てられればすぐに目が覚めてしまう事は分かり切っていた。元々眠りは浅い方で、寝入るまでまでにも時間がかかる。どうせ邪魔が入ると分かっているなら、原因を排除してから改めて寝た方が煩わしくない。

そんなレイヴンの予想は、当たっていたようだった。さほどの時間も立たぬうちに、ずりずりとひきずるような足音が聞こえてきて、部屋の扉が開き外の空気と共にアルドが入ってきた気配があった。
さして待ってはいなかったものの、ようやくか、と眉を寄せてため息をついたレイヴンは、ごろんと寝返りを打ってアルドの気配に背を向ける。
すると、ここで予想外の出来事が発生した。
ずるりずるりと、のろのろ近づいてきた足音がアルドとレイヴンのベッドの間までやってくると、なぜだかレイヴンのベッドがぎしりと軋んで沈み、振り返って止める間もなくアルドが入ってきたのだ、レイヴンのベッドへと。

「……は?」

一瞬、何が起こったのか分からなかった。アルドの行動があまりにもレイヴンの想定を超えていたからだ。
しかしすぐさま現状を理解したレイヴンは、ぴきりとこめかみに青筋を浮かべる。

「おい、アルド! 貴様の寝床はあっちだ! おい、起きろ!」

さすがに夜の宿で大声で怒鳴るのは憚られて、小声ではあったけれど、それでもこの至近距離ならばきちんと届く程度の勢いで、なぜだか人のベッドに潜り込んできたアルドを追い出そうと試みる。
けれど返って来たのは、謝罪でも理解でもなく、すうすうと呑気な寝息だけ。ついさっきまで立ち上がって動いていた筈なのに、既にすっかりと眠ってしまっているらしい。
このままでは埒が明かない。チッと舌打ちを一つしたレイヴンは、アルドの方に向き直り、べちべちと頬を叩きながら起きろ、出ていけと呼びかける。しかしそれでもアルドが目覚める様子はなく、僅かに眉を顰めてもごもごと口元を動かし、またすぐにくかーくかーと間抜けな寝顔をさらすだけ。ちっとも起きやしない。
ついには腹に据えかねて、げしげしと蹴りつけ物理的にベッドから落としてやろうとしたが、こちらもうまくいかない。いくらアルドの身体を押しても、ちっとも動きやしないのだ。意識のない人間は重いとは聞いた事はあったが、眠るアルドはまるで石像のようにずっしりと重い。両手両足を使って思い切り押せば、僅かに動いたけれど、稼いだ距離は直後、アルドの打った寝返りによってあっという間に帳消しになってしまった。
普段は滅多にしない力仕事、すぐさまぜえぜえと息を上げたレイヴンは、チッと舌打ちをして腹立ち紛れにげしりとアルドの足を蹴りつけてから、やり方を変えることにした。
忌々しいが人のベッドに居座るこの男を追い出すのは難しく、手間がかかる。ならば不本意ではあるが、自分がアルドのベッドで眠ればいい。追い出されるのは癪だが、呑気に眠る男に意地を張って無駄な労力を費やすのも馬鹿馬鹿しい。
朝になったら覚えていろよと小声で吐き捨て、レイヴンはベッドを抜け出そうとした。

が、しかし。
またしてもレイヴンの思惑はうまくはいかなかった。

「おい、離せ」

起き上がろうとすれば途中で何かが引っかかって邪魔をされる。一体なんだとそれを見やれば、ぎっちりとアルドの手に握りこまれたレイヴンの寝巻きの裾があった。
ぺちぺちぺちぺち、アルドの頬と裾を握る手を交互に叩いたものの、ちっとも離さない。苛立ちにぎりぎりと歯噛みをしつつ、指を一本一本剥がそうとすれば、むずがるように握る力が強くなる。
いっそのこと服を脱いでやろうか、やけくそ気味に考えて実行に移そうとすれば、まるでそんなレイヴンの胸の内を見透かしたように、伸びてきたアルドの腕がぐいとレイヴンの腰に巻き付き、ぎゅっと抱き寄せると胸のあたりにすりすりと額を擦り付けてくる。当然レイヴンは抵抗し、べちべちアルドの頬を叩いてげしげしと足を蹴りつけたものの、巻きついた腕から逃れる事ができない。

「貴様……覚えていろよ……ごほっげほっ」

ひとしきり暴れて再び息の上がったレイヴンが、ぜえぜえと肩で息をして咳き込みながら、恨めしげに呟いた言葉にも、やっぱり返ってくるのは寝息だけ。
心底不本意で納得がゆかず腹立たしいことだが、現状を変えることは極めて困難らしい。渋々その事実を受け入れたレイヴンは、仕方なしに目を瞑ってこのまま眠ることにした。
ふわりと身体を覆った毛布の中は、二人分の体温ですぐに温まった。冷え込みの厳しい夜だったのに、暑いくらいだ。
ぴたりと密着する自分以外の熱には違和感しかないのに、己の胸元にくっついたアルドからふすーふすーと漏れる寝息を聞いていれば、ふっと気が抜ける。ぎゅっと両足で足を挟み込まれ、拘束されるのは不愉快でしかない筈なのに、自身よりも高いアルドの体温がじわじわと移ってくると、ささくれた気持ちがなだらかになってゆく。
元々眠りは浅い方で、寝入るまでにも時間がかかる。
けれど、どうしてか。
自分以外の気配を間近にひしひしと感じながら目を瞑っていれば、あっというまに睡魔が足元から這い上がってきて、思考をぼやかしてゆく。

(ねこのようだな……)

完全に眠ってしまう前、なんとなしに考えたのはそんなこと。特に脈絡もなくぱっと思いついたそれは、レイヴンの中にあった最後の抵抗をあっさりと溶かしてゆく。猫なら、仕方ない。特に好きでも嫌いでもないが、レイヴンが外で寝ている時に何度か近づいてきたことがあって、レイヴンの身体で勝手に暖を取っていった。やつらはそういう生き物なのだ。
アルドもそれと似たようなものだと思えば、好きにしろ、と呟く余裕すら出来て、その余裕にもするすると睡魔が染みてゆき、頭のてっぺんからつま先まで、柔らかで暖かい眠りの気配に包まれてゆく。
そうしてレイヴンは、朝まで夢もみず、深く深く眠ったのだった。



それからも時々、寝ぼけたアルドがレイヴンの寝床に潜り込んでくることがあった。決まってそれは夜の冷え込みが厳しい日で、不思議とレイヴン以外のベッドには近づいている素振りはない。
鬱陶しくて煩わしいことだが、不本意なことにそんな夜はレイヴンもよく眠れて、朝まで何度も目覚めることもない。猫だと思えば諦めもつくし、それに。絶対に認めるつもりは微塵もないが、明るい陽の光の中では、誰彼構わず笑いかけて尻尾を振るアルドが、夜の一時、他の誰でもなくレイヴンのベッドに潜り込む、自分だけに懐いている猫になるのだと思えば、まあ多少の可愛げがあるような気がしないでもない。けして認めはしないが。

そうして、旅の先で。
アルドの本性が猫だとわかり大なり小なり混乱を浮かべる仲間たちの中。
やはりな、と呟いたレイヴンの唇は、楽しげな弧を描いていた。