月が綺麗ですね
「アルド、それってさ」
エデンを狭間の暗闇から救い出し、遠い未来の滅びの運命が回避されたあと。連動するかのように次元の揺らぎが小さくなっていることが判明し、次元戦艦で時間を飛び越える事が日に日に難しくなってゆくことが分かって、アルドたちの旅は終わりを迎えることとなった。
そうして、時代を超えて苦楽を共にした仲間に別れを告げて、既に未来では死んだ存在になっているエデンを連れてバルオキーに戻ってきてから。
まだぎこちなさの残るエデンとフィーネの仲を取り持ちながら、村のあちこちにエデンを連れ回し早く日々の暮らしに慣れるようにと心を砕く一方で、時々ふらりとアルドが姿を消す事には気づいていた。
長い時間ではない。しばらくすればちゃんと戻ってくる。
きっとメイ以外の、アルドに近しいみんなもそれには気づいていて、気付かないふりで目を瞑っていた。
たまには一人になりたい事もあるだろう。バルオキー周辺の魔物なら、旅を終えたアルドに傷をつけられる相手もいない。
もしかしてまた、ふっと消えてしまうかもしれない不安がないとは言えないけれど、別れの前、合成鬼竜とヘレナに説明された話によればその可能性が著しく低いことは分かっている。
だからアルドの姿が見えなくなった時は、探し出そうとはせずむしろ、気づいた者同士でさりげなく、邪魔が入らないようにアルドの一人の時間を守っていた。
示し合わせた訳でもないのに自然とそうなったのは、みんななんとなくそういう時のアルドに、以前とは違う空気を感じ取っていたからかもしれない。
故にこれは、不測の事態。けして意図した訳じゃない。
月影の森の奥にある洞窟に鉱石を掘りに行った帰り。偶然月の映る池の辺に佇むアルドを見つけてしまって、見なかったふりでこっそり去ろうとしたのに、その手の中にこの時代にある筈の無いものを見てしまったから、つい、声が出てしまった。
メイの声に振り返ったアルドは、慌てる事無く穏やかに笑って、見つかっちゃったか、と一言呟いただけ。
どうしよう、少し迷ってからメイはアルドに近づく。
メイの知るアルドなら大袈裟に慌てて動揺しそうなのに、らしからぬ落ち着きが知らない人のもののようで、ざわざわと不安を掻き立てられたから。
距離を詰めて改めてアルドの手元を見れば、そこにあったのは明らかにこの時代にはない未来の道具。
それぞれの時代に戻る際、いくつか思い出を持ち帰る事は出来たけれど、その時代に存在し得ないもの、その時代より先の時間でで生まれるべきものについては持ち出すことを禁じられていた。もしもそれが人に知られて、技術の発展が前倒しされてしまえば、再び未来が大きく歪んでしまうかもしれないから。
だからアルドがそれを持っている筈がないのに、現にアルドの手にはそれがある。
「秘密にしといてくれないか?」
「そりゃあ、いいけどさ」
メイの戸惑いを察したか、苦笑いを浮かべたアルドに頼まれて、頷いたものの釈然としない。アルドはそういうズルをするやつじゃないとよく知っている。するとすれば、よほどの事情がある時くらいだ。
踏み込んで聞いていいのか、メイが躊躇っていれば、アルドの方から「カメラなんだ、これ。ほら、見たものを写し取って絵にしてくれるやつ」とそれについて説明してくれる。
カメラは、メイも知っていた。
先の時代のものは持ち帰れないとなったけれど、写真を絵画風に加工したものなら数枚、持って帰っても構わないとの許可が出たから、別れを惜しむ最中あちこちでかしゃりかしゃり、絶え間なく視界を切り取る音が響いていたことを覚えている。メイの手元にもあって、たまに眺めては遠い昔、遠い未来の仲間たちへと思いを馳せていた。
機械の正体が分かってようやく、話の接ぎ穂を見つけたメイは少しほっとして、躊躇いを振り切ってアルドに話しかける。
「それ動くの? 未来の動力が必要なんじゃない?」
「太陽の光? で動くらしいぞ。壊れたら直すのは無理だけどな」
「へえ、さっすが。便利なもんだね。ねえ、何撮ってたの? アタシにも見せてよ」
メイがそれを切り出したのは、自然な流れだった。深い意味があった訳ではなく、軽い気持ちで口にしただけ。
けれどアルドは少し困ったように眉を下げて、静かに首を横に振る。
「ごめん、これ、見る機能はついてないんだ。撮れるだけ」
「見れないの?!」
「未来の機械だと見れるんだってさ」
「その機械は?」
「さすがに持ってきてないよ。ここにあるのは、これだけ」
わざわざ約束を破ってまで持ち込んだカメラで、撮ったものを見る方法が無いとの答えにはさすがに、呆気にとられてしまう。それじゃあ何のために風景を切り取っているのか、ちっとも分からない。
じゃあ意味ないじゃん、とメイが唇を尖らせれば、いいんだよ、と穏やかなアルドの声が響く。
「これは、800年後の未来に届けるものだから」
だからいいんだ、と言葉を重ねたアルドの横顔は、ひどく優しげなのに寂しそうで、嬉しそうなのに悲しそうでもあった。
そんな様々な感情の入り乱れる横顔を見たメイは、唐突に理解する。
(そうか、アルドのやつ、未来に、好きな人がいるんだ)
閃いた思いつきは、旅を終えてから時々大人びた表情をするようになったアルドの現状に、しっくりと馴染んでいるような気がした。
誰にでも親切で優しくても、誰かにだけ優しい訳じゃない。フィーネやエデンを大事に扱っても、あくまで親愛の域を出てはいない。
アルドのそれは、当たり前のように誰にでも向けられている。メイにも、ダルニスにも、ノマルにも。村人にも、見知らぬ他人にも、誰にだって。
アルドのそういう所を素直に凄いと思ってはいるけれど、時々無性に歯痒く感じる事もあった。
そんな幼馴染にようやく、特別に想う相手が出来たことを喜ぶ気持ちと、おそらく二度とは会えない事を切なく思う気持ち。
それでも尚、アルドがこの時代で生きるを選んだ事への喜び。
元々この時代に生きるメイたちとは違って、アルドとフィーネ、エデンの三人には、どの時代で生きるかの選択肢があったと聞かされていたから。それを知った時は単純に嬉しかっただけなのに、アルドが未来に向けた特別を知ってすら喜んでしまうことに、少しだけ後ろめたさもあった。
真似をした訳じゃないけど、アルドと同じように様々な感情が一緒くたに襲ってきて、うまく飲み下せない。
残念だね、と言うのも違う気がして、良かったね、でも違ってて、可哀想もありがとうも全部、きっと、違うから。
届くといいね。
やっとのことで絞り出した一言に、そうだなと笑ったアルドは、メイのよく知る幼馴染の顔をしていた。
あんまりもそのまま、知ってるものしかそこにはなかったから。
なんだか鼻の奥がツンとして、メイはごくりと熱い唾を飲み込んだ。
***
未来に着いたら、まず最初にする事。
持たされた端末の電源を入れて、めぇるとやらの更新ボタンを押す。
未来の機械はややこしくて、未だ扱い方には慣れていない。
けれど簡単な操作はいくつか覚えて、文字の打ち方も音声入力とやらもさっぱりだけれど、届いた手紙を見る方法はちゃんと知っている。
ぽん、ぽん、指で板を二回叩く。すると新しい手紙が数件届いている事を知らせる印が板の中にちかちかと光ったから、アルドはふっと笑って一つ一つ、電子の手紙の封を開いてゆく
まん丸に光る月、雨に濡れたルート99、ゼノドメインから見下ろすエルジオンの街並み。
本文はついていない、写真だけの手紙。
仲間たちからの連絡は、手紙とはまた別の伝言板のようなものに書かれる事が多くって、手紙を送ってくる相手はそんなにいない。たまにクレルヴォやシェリーヌが寄越すくらいで、その二人からの頻度だってそれほど多くはなかった。
だから薄い板の中に作られた郵便箱の中、届いた手紙の差出人の名前の大半は、一人のもので占められている。
ロベーラ。
使い方のよく分かっていないアルドのために、リィカが設定してれた名前が、ずらりと並んでいるのを見て薄く笑んだアルドは、新しく届いたもう一度一枚ずつ見返してゆく。
やがて仲間たちに急かされて次元戦艦を降りるまで、アルドはじっと手元の端末に見入っていた。
端末を持たされてしばらくして、定期的に届くようになった写真の理由をロベーラに尋ねたのは、もう随分前のことになる。
どれもすごく綺麗だけど、どうして送ってくれるんだ? と真正面から聞いたアルドに、返ってきた答えは知りたかった理由そのものではなかった。
「それの使い方はもう覚えたか」
「えっ? ああ、うん、手紙と伝言板の見方は覚えたよ」
「そうか、ならいい」
質問からはずれた答えに透けた意図は、ひどくロベーラらしいものに思えて、納得すると同時に少しだけがっかりもする。
あれやこれや口で説明するより、実際に使って慣れた方が早いだろうとの心遣いが潜んでいたのは分かった。
だけどそれだけの思惑しかなかったのが、なんだか物足りなくて寂しい。
それに、使い方は覚えたと告げてしまったから。
目的は果たしたと、二度と手紙は送られては来ないかもしれない。
伝言板にも未来の仲間たちはよく写真を載せていて、楽しげな様子にこちらまで嬉しくなることだってしょっちゅうだ。未来の風景なら、そこで十分に感じ取ることが出来る。
なのにロベーラからアルドに宛てられた電子の手紙、伝言板とは違ってアルドしか見ることの出来ないものが、もう見れないかもしれないと想像しただけでぐっと胃が重くなって憂鬱な気分になる。
そのせいでしばらくの間、端末の電源を入れるのが怖くなって、未来から足が遠のいてしまった。
そんなアルドの不安を裏切って、それからもロベーラからの手紙は届き続けた。
久しぶりにAD1100年に降り立って端末に触る時は緊張したけれど、時間が開いた分新しい手紙が来ていることを示す印が増えていたから、安堵でその場にしゃがみ込みそうになった。
ラウラドームの麦畑、廃墟の奥に灯る淡い光、ニルヴァから見える空に浮かぶ樹にかかる虹。
送られてくる写真はどれも綺麗で、はっと目を惹くものが多い。ロベーラからアルドだけに送られてくる特別を差し引いても、胸がじわりと震えるものばかりだった。
そうしてロベーラの手紙を楽しみに待つうち次第に、アルドからもロベーラへ手紙を届けたいと望むようになっていった。
例えばエアポートから見えた夕焼け、次元戦艦の甲板を照らす空の青さ、最果ての島の真っ白な砂浜の静けさ。
アクトゥールの水の煌めき、コリンダの原の幻想的な光の瞬き。
バルオキーの木々のざわめき、リンデの桟橋の先に広がる雄大な海。
息を呑むような綺麗なもの、思わず目を奪われて見入ってしまう何かを見つけたら、ロベーラに見せたいと思うようになってゆき、ロベーラもこれを見て綺麗だと思ってくれたら、何か感じるものがあったら、嬉しいと思うようになってゆく。
リィカやフォランに使い方を教えて貰って、写真を撮るようになったのはその辺りからで、初めのうちはちっとも上手くいかなかった。
言われた通り表示された印を押しているのに、ぐらぐらと揺れたように掠れた絵しか切り取れない。何回も何回も失敗してようやく、まともに切り取れた時は既に綺麗だと思えた瞬間は過ぎ去っていて、がっくりと肩を落とすことなんてしょっちゅうだった。
それでもたまにうまくいくようになって、ロベーラからの手紙が十届けば一つくらい、アルドからも送れるようにはなっていた。相変わらず届く手紙に文字はついていなかったけれど、アルドが写真を送ったあとそれに関連した風景が送られてくる。見たことのある未来の街並みも、ロベーラの手によって切り取られたものは特別に輝いて見えた。
そんなやり取りの全てが。
言葉はなくても通じている気がして、嬉しくて、幸せで、楽しくて。
楽しくて、楽しくて、楽しくて仕方がなかった。
綺麗なものを見たら、まず一番にその人に見せたいと思って。
美しいものを見たら、その人も美しいと思ってくれたらいいなと望んで。
心惹かれるものを見たら、その人と同じものを共有したいと願って。
相手も同じことを思ってくれていたら、飛び上がりたくなるくらい嬉しくなってしまう。
その感情の湧き出す根元、存在する感情の名前はおそらく。
愛と恋を足したものだと知ったのは、合成鬼竜から異なる時代の仲間たちとの別れを示唆されてからだった。
アルドもフィーネもエデンも、既に未来にはない存在で、かといって過去にも本来は存在していない。しかしどの時代にあっても先に与える影響は、遠い未来へ向けて流れ出した歴史によって自然と修正される範囲だと前置きされた上で、どの時代で生きてゆくかと合成鬼竜から選択肢を提示された時。
少しも揺らがなかったと言えば、嘘になってしまう。脳裏をちらり、何かが過ぎったのは否定出来ない。
けれどバルオキーで待つ優しい養い親の顔を思い浮かべれば、自然と答えは決まっていた。
別れを惜しむ時間はいくらあっても十分ではなかったけれど、それでもある程度の猶予は存在していた。
アルドたちの時代ともっと前の時代に跳べるのは、それぞれ一度ずつで、これが終わりと未来に集められた仲間たち。その一人一人とじっくり言葉を交わして、抱き合って泣いて、最後には笑い合う時間が作れるくらいには。
なのにその中に、ロベーラの姿は見つからない。
他の仲間に聞けば、皆既にそれぞれ彼との別れの言葉は交わしたという。
アルドの前にだけ、ロベーラは姿を見せてくれない。
探し回っても、ついさっきまでそこに居たと話を聞きつけて走っても、するりするり、ロベーラはアルドの目を掻い潜って逃げてしまう。
そうして与えられた限りある時間が半分を切った時、アルドはロベーラを捕まえる事を諦めて、別の手を考えることにした。
最後にどうしても話はしたかったけれど、かといって他の仲間との別れを蔑ろにもしたくなかった。
自身がロベーラに向けていたものを自覚したと同時に、おそらくロベーラからも同じものを向けられていたと理解したアルドだったものの、二人の間に明確な言葉のやり取りは存在してはいなかった。
躍起になってロベーラの姿を探し回っていた時は、これが最後だからと伝えてしまうつもりだったけれど、最後だからこそ今まで通りがいいかもしれないと考え直す。そうして仲間たちと未来のあちこち思い出の地を巡りながら、一番届けたい風景を探すことにした。
その最中、足を向けた最果ての島。
太古の昔より永く存在する像の前、懐かしげに思い出話に花を咲かせる仲間たちの中、アルドは天啓を受けて固まった。
過去、現代、未来、ずっと存在してきたそれ。
大昔に埋めたジオメタルが、誰に暴かれる事無く眠っていたその足元。
そこは確実に、アルドの生きる時代とその先の未来を繋いでいると知る場所だった。
元の時代に戻っても、ここに託したいものを埋めればいつか、ロベーラの手に届くかもしれない。
届けたいものは沢山ある。
好きだって伝えたいし、どれほどロベーラに助けられて感謝してるかも伝えたい。最後の別れを告げさせてくれない恨み言も残してやりたい。
けれど一番はきっと、バルオキーから見える景色。
旅を終えて元の時代に戻ってもきっと、ふとした瞬間にロベーラに見せたいものがあるはずだから。
写真を撮って、送りたくなるはずだから。
そうしてもしかしていつか、それがロベーラに辿り着くかもしれないと信じることが出来れば、それだけで。
再会の存在しない別れを、穏やかに受け入れられる気がしたから。
独り善がりの自己満足と分かってても、アルドはその思いつきを捨てられなかった。捨てられなくて、こっそりとリィカに相談をした。
アルドの話を聞いたリィカは、渋る事無く即決で共犯者に名乗りをあげてくれた。
「アルドさんの最後の頼みデス、ノデ!」とどこか張り切った様子のリィカが用意してくれたのは、一機のカメラ。「撮影しかデキマセンが、耐久性はバツグンデス! 記録を未来にツタエルコトに特化してイテ、理論上は2000年、データの保存が可能カト! ……誰もタメセテはイマセンガ……」と最後は自信なさげにピンクのパーツを垂らしていたけれど、ありがとうと告げて受け取れば胸を張って勢いよくくるくるとパーツを回していた。
合成鬼竜はおそらく、アルドの目論見に気づいていた。気づいていて「下手な真似はするなよ」と、何をとは言わず遠回しに釘を刺すだけで見逃してくれた。
やがて訪れた、別れの時。
探しても探しても見つからなかったその人に、ようやく会えたのは、まさに次元戦艦がアルドたちの時代へ向けて跳ぶ準備に入り、後ろ髪を引かれながら同じ時代の仲間たちと共に甲板に乗り込んだ間際。
見送りに並んだ仲間たちの後ろ、最後の最後にやっと顔を見せたロベーラの姿を見つけ慌てて甲板から駆けおりたアルドは、逃がす猶予を与える間もなくその硬い身体へと勢いよく飛び込んで抱き着いた。よろめくことなく抱き止めてくれたロベーラの腕は、少しの躊躇いののちにとん、と優しくアルドの背中に触れ、けれどそのまま抱きしめ返してくれることなくだらんと身体の横に垂れる。
そんなロベーラにつきり、胸は痛んだけれど、構うもんかとぐっと顔を胸板に寄せて、これが最後と胸いっぱいに匂いを嗅ぐ。
金属と油が混じった匂いと、焦げたような煙の香り。アルドの、好きな人の匂い。もう二度と嗅ぐことのない香り。
そうして匂いをしっかりと記憶に刻んでから、首に回した腕にぎゅっと力を込めてロベーラの顔を引き寄せ、想いの丈をぶちまける代わりその耳にそっと囁いた。
「最果ての、あの像の下に。全部、ぜんぶ、置いておくから」
告げることができたのは、たったそれだけ。
間際に全て曝け出してしまえるほど心の整理がついてはいなくて、リィカに無理を言ってまで用意したものに全てを掛けてみたかったから。
すぐさま踵を返して次元戦艦に乗り込めば、アルドがロベーラとの別れを済ませていないことをずっと気にしていたことを知っていた仲間たちが、良かったねと口々に告げて笑ってくれる。
そんな彼らに笑い返しながら、アルドはそっと胸のあたりを抑え、忍ばせたカメラの硬さを確認する。
二度と交わる事のない二つの時代、繋ぐのは長い年月。
何百年の時間を経て、いつか彼の元へと届きますように。
僅かばかりの奇跡に望みを託し、すっと息を吸って気持ちを切り替えたアルドは、こちらに向けて手を振る、二度と会えない大事な仲間たちに向けて、にこりと笑顔を作って笑いかけ両手を大きくぶんぶんと振る。
じわり、目頭が熱くなったけれど、無理矢理に表情筋を動かして、笑顔のまま手を振り続ける。
最後は笑顔で終わりたかった。
笑った顔を、覚えていてほしかった。
加速を始める駆動音、薄れてゆく景色の中。
瞬きもせずアルドは、仲間たちの姿を目に焼き付けた。
彼らの姿が見えなくなっても、ずっと、ずっと。
瞳の中、焼き付いた彼らに向けて、ずっとずっと、手を振り続けていた。
***
エルジオンの近郊、いつかの時代の街の跡。
辛うじて家の体裁を保った一軒の廃墟、荒々しく開かれた扉から転がるように男が一人飛び込んできた。
顔色は悪く、肩からは血が流れている。
全く厄介な案件だった。
廃墟の奥、うらぶれた外観とは裏腹に小綺麗に整えられた一室、棚から回復薬を取り出して傷口にかけながら男は、独りごちる。
人間と合成人間の諍いは終結したのに、それでも尚、金次第で何でも仕事を請け負う男の元に舞い込む依頼の数は減らない。合成人間が絡む率が低くなってからの方が、面倒なものが増えた気すらしている。
今日だってそうだった。
新型の麻薬の流通ルートを潰してほしいなんて一見マシなものに見えて、蓋を開ければ依頼人は別種の薬を流したい売人。ろくでなしたちの潰し合いでしかなかった。
腹立ち紛れに依頼を遂行がてら、依頼人の情報もEGPDに流しておけば、どこからバレたのか報復の襲撃を受けた。全て返り討ちにしたものの、こちらの負った損害も少なくはない。
回復薬で傷を塞いだとはいえ応急措置でしかない上に、いくつかのパーツは修理しなければ使えなさそうだ。身体を覆う装甲を外しながら細部をチェックしていた男は、忌々しげに舌打ちをする。
と。
血の匂いの広がる室内。
ぶうんと音がしてぱちり、壁に画像が映写される。
男の生体反応を察知して、自動で起動するように設定していたもの。
それを見た男は、ふっと肩の力を抜き、ぐりぐりと眉間の皺を揉んだ。直前まで浮かべていた不機嫌の色はそれだけであっさりと消え失せ、やんわりと緩めた唇の端は、僅かに上がってすらいる。
ふう、と吐き出す息は苛立ちを示すものから緊張を解すものに代わり、自然と装甲を扱う手つきも丁寧なものに変化してゆく。
やがて全てのパーツの点検を終え、ごろりと簡素なベッドに寝転がった男は、天井に映し出されたものを見て柔らかく笑い、微笑みの形のまますうすうと穏やかな寝息を立て始めた。
眠る直前、男が視線を向けた先、そこには。
薄暗い森の中、淡く光る植物に囲まれた水面。
写る月が美しく揺らめいていた。