気まずい


ヌアル平原をぐるりと見回った帰り、村の近くの池で軽く水浴びをする。それは警備隊に所属する前から続く、ダルニスとアルドのいつもの習慣だった。
村まで帰れば共同浴場はあったものの、陽が落ちるまでは女性たちの時間だったからダルニスたちが使う訳にはいかない。一人の時ならばたとえ村の近くだろうと魔物への警戒を怠るためにはいかないため時間まで待つようにしていたけれど、二人いるならばどちらかが見張りに立てば事足りる。
だからアルドと外へ出た帰りは、池で汗を流して帰るのが当たり前の事として身についていた。

攫われたフィーネを追いかけてアルドが旅に出て以来、アルドと外に出かける機会は極端に減ったものの、だからといって幼い頃からの習慣が抜ける訳では無い。
久しぶりに村に戻ってきたアルドと共に見回りに出かけ、浅い所までやって来ていた何体かのゴブリンを脅しつけて奥へと追い払って村へと引き返す道すがら、特にどちらから何か言う訳でもなく自然と慣れ親しんだ池へと足が向いていた。
アルドに先に浴びるように視線で促せば、一つ頷いてすぐにばさばさと服を脱ぎ始める。脱ぎ散らかされたそれにため息をついたダルニスは、腰を屈めて服を拾い上げて軽く埃を払って腕にかける。
そして何気なく視線を上げたそこで、びしり、ダルニスは固まった。上着を脱ぎ終わり下を脱ぎ始めたアルドは、ダルニスの視線に気づく素振りはない。

ばちばちばちばちばちばち、高速で瞬きをしたダルニスは、一旦目を瞑ってはーっと長い息を吐き出す。もしかして疲れているのかもしれない。疲れのせいで妙な幻覚を見てしまったのかもしれない。そうだ、そうに違いない。
しかし現実は無情だった。見間違いだと自身に言い聞かせて心を落ち着かせてから、再度目を開けたダルニスの視界に飛び込んできたのは、先と変わらぬ光景。非常に残念なことにそれは、幻覚ではなかったらしい。
こうなっては仕方ない。それが現実であることを渋々受け入れたダルニスは、アルドに直接尋ねることにした。

「……アルド、お前それ、どうしたんだ……」
「え? それ? ……どれ?」
「お前の胸、その乳首……でか、いや、腫れてないか?」

そう、乳首。ダルニスを驚かせたのは、アルドの乳首だった。
幼い頃からお互いの裸なんて見飽きるほどに見てきたから、アルドが全裸でいても今さら特に何を思うことも無い。筈だったのに、その見慣れた幼馴染の乳首が、記憶にあるよりも倍近くの大きくなっていたら、さすがに驚くだろう。
今まで散々見てきたとはいえ、まじまじと観察した訳では無い。特に乳首なんていつもはあるとも意識していなかったものだったから勘違いかとも思ったけれど、掘り返した記憶の中のアルドの胸に、今のアルドの乳首を添えてみると違和感が酷くてちっとも馴染まない。明らかに大きくなっていると考えて間違いない。

既にダルニスの中には、嫌な予感が生まれていた。前回アルドの裸を見た時から多少間は空いたとはいえ、短期間のうちにここまで乳首が腫れるような心当たりが、ダルニスの中にはあった。つい直球で尋ねてしまったけれど、いくら驚いたからといって聞くべきではなかったかもしれない。
しかし何か虫にでも噛まれたせいである可能性も捨てきれなくて、そうであるならば適当な薬草の汁を塗っておいた方がいいだろう。
そうだろう、そうであってくれ。薬草ならいくらでも摘んできやるから。
半ば祈りつつ、ダルニスはアルドの返事を待つ。

「ああ、これか。これはロベーラがさ、胸が好きみたいでよく吸っ」
「分かったもういい聞いたオレが悪かったそれ以上は言うな」
「わ、わかった……?」

しかし、やはり現実は無情である。
あっさりとダルニスの希望を打ち砕いたアルドは、恥じらう素振りもなくむしろちょっぴり嬉しそうな顔で、理由について詳しく話し出そうとしたから、さっと死んだ目になったダルニスは早口でアルドの言葉を遮った。
ものすごく聞きたくない。幼馴染、というよりは最早家族で弟のような、身内のそういうあれやこれやなんて、絶対に聞きたくない。
アルドはダルニスの勢いに少々たじろいだ様子だったけれど、まあいいか、とすぐに気にするのをやめて、脱ぎ掛けの下をぽいぽいと脱ぎ捨てると、ざぶざぶと池に入っていってしまった。いつもなら、あまり深くに行くとサファギンが出るから気をつけろよ、と声をかけるところだけれど今はそんな余裕もない。

アルドがロベーラと付き合い出した、というのは知っていた。当の本人、アルドから嬉しそうな顔で告げられたからだ。
聞いた時はとても驚きはしたものの、反対はしなかった。それどころか、嬉しげなアルドの顔にひどく安心した記憶がある。
ダルニスはアルドの事をいいやつだと思っていて、幼馴染で家族、友人や仲間として、非常に好ましく思っている。しかしだからこそ、アルドが誰かと付き合う未来が全く想像出来なかった。
幼い頃から共に育ってきたが故にアルドがそういう色恋沙汰に極端に鈍い事も知っていたし、色めいた感情を自発的に抱いた事が恐らくは無いことも知っている。アルドの好きには、欲を伴わない幼子のような好きだけしかなくって、この歳で初恋すらまだだとも知っている。
だからアルドに恋人が出来る気がしなくって、もしかしてずっとこのままなんじゃないかと、お節介ながら心配もしていた。或いは特別な好きを知らぬが故に、変な相手に騙されて言いくるめられる可能性も危惧していた。

そんな背景があったから、付き合うことになったんだ、と報告してきたアルドの微笑みに、一抹の寂しさは覚えたけれどそれ以上に安堵したダルニスは、全面的に応援してやることにしたのだ。
相手がロベーラだというのは驚いたけれど、悪い人間ではないと知っていたし、以前からアルドを特別視していたことも分かっていた。むしろダルニス個人としてもロベーラには、同じく弓を扱う者として親しみと一定の尊敬の念を抱いていた。
森の中で獲物に狙いを定める技ではダルニスも負けるつもりはないが、矢をつがえてから狙いを定めて放つまでの時間の短さ、瞬発力においてはアルドの仲間の矢を扱う者たちの中でも、ロベーラが特に飛び抜けて秀でている。無駄のない動作には見習うべき所があり、たまに同行する機会が巡ってきた時は、密かに戦闘の様を観察して参考にして取り入れられそうな所は積極的に取り入れている。

そう、尊敬していたのだ。弓の名手として、そしてアルドと付き合い始めてからは、アルドにあんな顔をさせる事が出来る人物としても。アルドと付き合いが長い分、それがひどく困難である事をよく知っていたから。一見簡単に落とせそうに見えて、誰にでも同じだけの好きを振りまくアルドから、特別を引き出すのは並大抵のことではないと分かっていたから。

しかし。

(……胸が好きなのか、ロベーラ……)

ばしゃばしゃと水を跳ねさせるアルドを見ながら、死んだ目でダルニスは思う。思ってしまう。余計な事を考えたくはなかったけれど、どうしたって考えてしまう。
脳内には、赤子のようにちゅうちゅうとアルドの胸に吸い付くロベーラと、そんなロベーラを恋人が出来たと報告してきた時と同じ嬉しそうな顔で見つめるアルドが居座っている。身内のそういう姿も、尊敬していた仲間のそんな様も、全く、これっぽっちも想像なんてしたくはないのに、追い出そうとしてもちっとも出ていってくれない。
この短期間であんなも分かりやすく乳首が育つなんて、どんな勢いで吸ったんだロベーラ。あの鈍いアルドにまで胸が好きだって認識されるなんて、どんだけ胸が好きなんだロベーラ。
考えたくないのにロベーラへの疑問、という名の突っ込みが延々と頭の中に湧いてきて止まらない。思考に比例してただでさえ死んだダルニスの目がますます死んでゆき、ついには悟り切ったような達観した眼差しで空を見上げた。
雲一つない青空は美しく澄み切っているのに、青空にまでアルドの胸を真顔で吸うロベーラの幻影が投影される。ふっと皮肉げに笑ったダルニスは、しみじみと胸の内で呟いた。勘弁してくれ。

「ダルニス? どうしたんだ?」
「……いや、何でもない。見張りは頼んだ」

気づけばアルドは池から上がっていて、手拭いで水気を拭いながら訝しげな声をかけてくる。一周回って冷静になりつつあったダルニスは、淡い微笑みを浮かべてアルドに返事をすると、さっさと服を脱いで池に入る。
しかし冷静になったようで、全く冷静ではなかったらしい。顔を洗って気持ちを切り替えようと水をすくった手のひらの中、光で煌めく水面にまで二人の幻を見てしまったダルニスは決意した。
しばらくは二人と顔を合わせるのは避けよう。
忘れようとしても浮かんでくる些か衝撃の強い想像から逃げるには、もはやそれしか打つ手を思いつけなかった。

そしてしばらくの間、旅に同行することも村に帰ってきたアルドと会うことも極力避けていれば、メイやノマルから何かあったのかと聞かれるようになる。わざわざ必要もない用事を作って避けていると悟られぬようにさり気なさを装っていたつもりだったが、やはり少々不自然だったらしい。アルドも気にしていると聞かされれば罪悪感も湧き、けれどまだ引きずっている幻とどう付き合っていこうかと思案していると、ある日バルオキーに現れたロベーラに捕まってしまう。
躱して逃げられ無い事もなかったが、アルドに相談されたと告げたロベーラの言葉の端々、向けられた視線に宿るある疑念に気づいたダルニスは、観念して白状することにした。
ダルニスはアルドの事を大事に思ってはいるけれどあくまでそれは、友人や家族の範疇。ロベーラが気にしているような、色めいたものなんてこれっぽっちも混じってはいないのだ。そもそも、原因はロベーラなのだ。ロベーラがアルドの胸を好きすぎたのが悪い。

諸悪の根源にあらぬ疑いを向けられて少々腹が立ったこともあって、包み隠さず率直にアルドを避けていた理由を話せば、黙って聞いていたロベーラは、そうか、と一つ頷いて、一見して普段通りのままどこかから取り出した煙草に火をつけようとする。
けれどくわえたのは穂先、そのまま吸い口に火をつけた彼は、ひと吸いもしないうちにそれをぺっと吐き出してごほごほと噎せる。あからさまに動揺しているのが見て取れてしまう。
それでも努めて平静を装っているらしいロベーラがぐいと拭った唇に、煙草の葉がまだ点々とついているのを見つけたダルニスは、腹が立つのを通り越してなんだか気の毒な気持ちになってしまった。
確かに大元の原因はロベーラだけれど、アルドに聞いてしまった自分も迂闊だったし、全く恥ずかしがる様子もなく嬉しそうにロベーラがと口にしかけたアルドの大雑把さも悪い気がする。恋は知ったようだけれど、基本的にそちらに関して全面的に鈍い所は変わっていないらしい。ロベーラはその辺に羞恥を感じたり動揺する機微があるようなので、さぞ苦労している事だろう。
アルドの筋金入りの鈍さを知っているダルニスは、唇についた葉っぱには触れないまま、少し同情の滲む声で告げる。

「……そのうち慣れるから、アルドにはうまく言っておいてくれ……」
「……ああ」

頷いたロベーラの声は、微かに震えていた。