You can't fly!
「アル……っ」
次元戦艦の一室にて。
入り組んだ廊下を抜けた先、小さな部屋の扉を開けたセヴェンは、中に目当ての人物の姿を見つけ反射的に口をついて飛び出した音を、途中でごくりと腹の底に飲み込んで磨り潰す。
目的の相手、アルドは確かにそこにいた。部屋の隅に置かれた椅子に座り、机に投げ出した腕の上に頭を預けて、規則正しいリズムで背中を上下させながら。
なんとなく足音を殺して慎重にアルドの方へと近づいてゆくと、途中でシュンと機械的な音がして背後で扉の閉まった音がする。グオングオンと恒常的に響く次元戦艦の駆動音を引き裂いて、高く響いたその音に思わずびくんとセヴェンの肩が跳ねたが、アルドの呼吸が乱れた様子はない。
ごくりと唾を飲み込んでから、今度は一気に距離を縮めてアルドの隣に立って、小さな声でその名前を呼んでみる。
「……アルド」
けして静かとはいえない空間の中、それでもちっとも気にした風もなくすやすやと寝入るアルドに、そんな囁き声で覚醒を促すには至らなかったらしい。
声は潜めたまま何度か名前を呼んだものの、全く起きる気配のないアルドの姿に、セヴェンはいつの間にか詰めていた息をふっと吐き出した。
確かにアルドの事を探してはいたけれど、少し聞きたいことがあっただけで今すぐ叩き起さなきゃいけない用事ではない。せっかく気持ちよさそうに寝ているのだから、もうしばらくこのままでいいだろう、と。心の中で並べたいくつかの言い訳を盾に、眠るアルドを起こさない事に決めたセヴェンは、しかしそのまま部屋を出てゆく気にもならず、眠るアルドの近く、余っていた椅子を引っぱってきて腰を下ろした。
(……そりゃ、疲れてるよな)
そのまま、まじまじとアルドの顔を眺めたセヴェンは、目の下に薄いクマが出来ている事に気がついて、むっと眉を顰める。
消えた魔獣王の妹やエデンを救うための手がかりを、各地を回っては探してはいるけれどなかなか成果は芳しくない。
しかもその合間にまたアルドのお人好しの虫が騒いで、別の問題を次から次へと引っ張ってくるから、案外毎日忙しくてゆっくりする暇が無いことは知っている。
気づいた誰かが定期的に休ませてはいるものの、ここのところまた見知らぬ他人のためにあちこちかけずり回っていたから、さすがに疲労が溜まっていたのだろう。
そんなアルドの事が腹立たしいような、誇らしいような、複雑な気持ちでしばらくアルドの顔を眺めていたセヴェンは、ふと。人差し指を伸ばして、その薄いクマに触れてみた。
特に考えがあった訳ではないけれど、なんとなく。少しでもその色が薄くなればいいなと思ったから。
恐る恐る、まずは一撫で。アルドが起きる様子はない。
続いて、一往復。それでもやっぱり、アルドは目を覚まさない。
同じ動作を何度か繰り返してもちっとも起きる気配がないから、徐々に気を大きくしていったセヴェンは、目の下からそろりそろりと指を移動させてアルドの輪郭をなぞってゆく。
起きている時にはコロコロと表情を変えて、笑っていることが多いからあまり気が付かなかったけれど、案外、形は骨ばっている。肉は薄く、肌も硬めだ。セヴェンのものより心持ちざらついた皮膚の感触が、その分だけ男らしい気がして少し面白くない。
顎の下とこめかみの近くにはぽつりぽつり、膨れた出来物があって、わかりやすくアルドの疲労を示していた。
あとでクレルヴォに相談してサプリを調達してもらおうと決めて、他にも何か不調は出ていないかと探る体であちこちと指を這わせた先。
そっと触れた唇が思いの外柔らかくって、反射的にセヴェンは指を引っ込める。
やましい気持ちがあった訳じゃない。唇が、荒れていないか確かめようとしただけだ。
けれど言い訳を連ねる頭とは裏腹に、心臓の鼓動はばくばくと速度を増していて、ごくりと飲み込んだ唾はやけに大きく耳の中に響く。心なしか、頬も熱くなっている気がした。
指と指を擦り合わせて、柔らかな感覚の残滓を消そうと試みるも、なかなかうまくいかない。消えるどころか、より鮮明に蘇ってくる錯覚さえ覚え始める。
かさついているのに頬とは違って柔らかくて、くっと指先がめりこんで、熱くて、ほんのり湿っていて。ひどく無防備だった。
なんだかアルドの顔をまともに見ていられなくなって視線を逸らせば、緩く握ったアルドの手を見つけたから、気まずさを誤魔化すようにそちらに意識を向ける。
手の甲には擦り傷が一つ、爪にはささくれが出来ている。アルドは気にしていなさそうだけれど、これも後でリィカかシエル辺りに相談して、何か手のケアに良さそうなものを用意してもらおうと決めてから、握った手の指を一本ずつ慎重に開かせてゆく。
そうして開いた手のひらに、なんとなしに己の手を重ねてみた。
大きさはほとんど変わらない、と言いたいけれど、若干アルドの方が大きい気がする。
少し悔しくなったセヴェンは、指の根元を揃えて再度比べてみる。すると骨格自体はさほど変わらないか、もしかしたらセヴェンの方が若干大きいように思えて、改めてアルドと己の手を見比べてみた。
一番の違いは、手のひらの皮の分厚さ。おそらく剣だこと呼ばれる硬くなった部分がいくつもあって、それ以外の皮膚もざらりとしていて張っている。セヴェンも杖は握るけれど、杖はあくまで己の中の力を開放する際に補助的な役割を果たすもので、擦れるほどに力いっぱい握りしめるものではない。
以前聞いたアルドの話によれば、幼い頃から一心に重い剣を振るって訓練を積み重ねてきたといっていたから、その年月の分だけ手のひらに厚みを増してきたのだろう。
それを思えば自身よりも分厚いアルドの手に感じていた悔しさは薄れ、じわりと胸が暖かくなる。手のひらを合わせれば懸命に剣を振る小さなアルドが目の前に浮かぶ気がして、軽く握ればその頃のアルドの気配を感じ取れる心地がする。
もっと早く、アルドに出会いたかったと思うことはよくある。
小さな頃からアルドが隣にいたら、もっと毎日が楽しくって、落ち込んだ時もすぐに顔を上げて前を向けたような気がする。無理解な誰かに自身の力を否定されて心がささくれても、アルドが隣で笑って背中を叩いてくれれば、つられて自分も笑ってしまった気がする。
小さな頃のアルドの事をよく知っているダルニスやメイにノマルは勿論のこと、妹のフィーネまで羨ましくてたまらなくって、昔のアルドの話を聞くのは好きなのに、聞いた後はいつも少しだけ寂しくなる。
だからこそ、余計に。出会っていない時のアルドが積み重ねてきた時間の名残を汲み取りたくって、何度も何度もアルドの手を握る。
そんな風に熱心にアルドの手を握っているうち、唐突に。
指の間に指を絡めてやわやわと握っている状態がまるで、恋人相手にするもののようだと気づいたセヴェンは、慌ててさっと手を引っ込めた。
そんなつもりはなかったのに、一度気づいてしまえば無視してやり過ごすことが出来ない。
ようやく落ち着いたと思った心臓の音が再び騒がしくなり、さっき以上の速度でどんどんと激しく胸を打つ。今度は気のせいではなくはっきりと頬が火照っているのを自覚してしまったし、ついでに直前までアルドに触れていた手のひらまで、かああっと炙られたように熱を上げてゆくものだから、セヴェンはいよいよいたたまれなくなって視線を彷徨わせた。
視界にアルドの手が入れば握った手のひらの感覚が蘇ってくるし、顔を見れば唇の柔らかさを思い出してしまう。けれど完全にアルドから目を離してしまうことはなぜか出来なくって、気づけば顔と手を何度も交互して見つめてしまっていた。
落ち着こうと吸った息は喉に引っかかってヒュっと甲高い音を鳴らし、飲み込んだ唾は気管に逸れてしまって軽く噎せる。
それでもアルドは、やっぱり起きる素振りを見せなかったから。
ようやく咳が落ち着いて、改めて深呼吸をしてから、そっと。
アルドに向けて、手を伸ばす。
その行先がどこに向かうか定まらないまま、伸ばした指が徐々にアルドへと近づいてゆく度に、どきどきと鼓動が大きくなって耳の奥で破裂しそうになって、ツンと鼻の奥が痛くなって、頭のてっぺんからつま先まで沸騰しそうなほどに熱くなって、それで。
それがいよいよ、アルドに、アルドの唇に、触れそうになった瞬間。
「アルドいるー?」
「うわあああああっ!」
「……なにしてんの、セヴェン」
シュン、と扉の開く音がして、廊下からひょいとフォランが顔を覗かせた。
大声を上げて勢いよく立ち上がったセヴェンに、ひどく胡乱げな視線を向けてからその身体の向こうにアルドの姿を見つけたらしきフォランは、もう一度訝しげにセヴェンを見やる。
「……なにしてたの?」
「なななな何もしてねえし! 起こそうとしてたら、いきなり扉が開いて驚いただけだし!」
「……ふーん」
吃りながら慌てて言い繕うセヴェンの様子を、じろじろと胡散臭げに見ていたフォランだったが、まあいっかと途中であっさりと頷いてから、「おーいアルド!ねえ、起きてー!」と眠るアルドの肩を掴んでゆさゆさと揺すり始めた。
そんな二人の様子を目の端に捉えながら、セヴェンは抜き足で部屋の入り口に近づいていく。
今、目を覚ましたアルドと顔を合わせるのはひどく気まずかった。別に、やましい事をしてた訳じゃないし、と胸の中でいくら呟いたって、後ろめたさが消えてはくれない。
「あれっ? セヴェンもアルドに用あったんじゃないの?」
「たたた大した用じゃねえし! それに、別のっ! そう、別の用事思い出したんだよっ!」
部屋を出る直前、気づいたフォランに声をかけられたがどうにか誤魔化して飛び出した。
そのまま、次元戦艦の廊下を一直線。全速力で駆け抜けて、突き当たり、壁に手をついてぜえぜえと肩を上下させる。さほど長い距離ではなかったとはいえ、全力で走ればそれなりに息も上がる。
だから、全部。
さっきまでの心臓の鼓動も、上がった体温も、全て。
全速力の余波に紛れこませて、何もかも誤魔化してしまおうと思ったけれど。
握った手のひらの中。
触れた唇の柔らかさも、重ねた手のひらの硬さも、消し去ってしまう事は出来ないまま。
少し、呼吸が落ち着いてから。
握った手を恐る恐る開いたセヴェンは、その真ん中にそっと唇を寄せて目を閉じる。
瞼の裏には、眠るアルドの顔が浮かんでいて。
また一度。とくりと大きく、心臓が跳ねた。
なお、後日、次元戦艦の甲板にて。
表情は分からないもののどことなく言いにくそうな雰囲気を漂わせた合成鬼竜に、次元戦艦内は己の体内のようなものであるだとか、だからそこで起こっている事は自ずと合成鬼竜も知ることになるのだとか。
とても遠回しな物言いで、先日のアルドとの一件を把握している事を告げられたセヴェンが。
「うわあああああああああっ!」
青空に響き渡る絶叫と共に甲板から空へと羽ばたこうとして、たまたま居合わせた戦艦クルー達により必死に止められる姿が、あったとかなかったとか。