声
誰彼構わず聞いて確認した訳では無いけれど、それほど性欲が強い方ではないと思う。多分。
おおよそ四日に一度の頻度で処理をすればさして問題がなく、それ以上の欲求を覚えることはない。綺麗な人を見て綺麗だなと思うことはあったし、あまりに薄着の女性を前にすれば少し目のやり場に困ってしまうけれど、それだけだ。その先を考えてむらっとすることは、殆ど経験したことがなかった。
だから、まさか。
「ひゃんっ!」
戦闘中、牙を剥く敵に相対する仲間の後方、新手の増援による奇襲を警戒して目を配る最中。
ふいに聞こえた仲間の一人の悲鳴に心配を抱くと同時に、一瞬ちらりと良からぬものが頭を過ぎった己に何より驚いたのは、他ならぬアルド自身だった。
すぐさま胸いっぱいにぐるぐるととぐろを巻いた自己嫌悪の波ががうねって広がってゆき、かあっと頬が熱くなって口の中がからからに乾いてゆく。
仲間の武器を作るための材料を調達しに来た場所で、出てくる敵はそれほど強くない。よほどの事が一つ二つ、三つも四つも重ならなければ、かすり傷以上の怪我を負う心配はまずないと分かっている。
けれどだからといって油断していい言い訳にはならない。
それもただ気が緩んだのみならず、脳裏にちらついた映像がとても気まずいものだったから。
ぱぁん、と軽く自身の頬を叩いて気を引き締め直したアルドは戦う仲間たちを背に、今はただひっそりと静まった暗がりの向こう、僅かな異変も見逃さぬようぎりりと睨みつけた。
そこに至るまでの諸々の経緯は省くとして、結果としてアルドとマイティは恋人同士という関係に落ち着いている。
お互いが一等特別になってから、しばらくは一緒にいるだけで満足していたけれど、だんだんとそれだけじゃ足りなくなっていった。触れ合う場所が増えていって、よく分からないまま心が訴える欲求に従って、互いに向けて必死で手を伸ばしているうち、行為はエスカレートしてゆき、ついには身体を重ねるまでに至っている。
そこまでは良い。
陽の光の下、その時のことをふと思い出してしまえば胸がむずむずとして気恥ずかしくなって、ちょっぴりいたたまれない気持ちになる事もあるけれど、けして嫌な訳じゃない。思い出している最中、知らず赤くなる頬を気づいた誰かに指摘されれば恥ずかしさで穴に埋まってしまいたくなることを除けば、幸せな記憶に分類されるもの。
それに確かに特別な記憶ではあるけれど、何が変わるとも思ってはいなかった。繋がりたくて近づいたのではなく、もっと近づきたくて距離を詰めていくうち繋がっただけ。いつもの自分の中に、特別なものが一つ二つと少しずつ積みあがってゆくだけ。
だから今までと同じ、彼が一等特別なまま、昨日までの続きが明日も明後日も続いてゆくものだとばかり思っていた。
しかしながら。
そんなアルドの予想とは裏腹に、確実に変わったものがある。
たとえば、すれ違った瞬間。首に巻かれた布の隙間から覗く肌の色にどきりとして、俯いた睫毛の作る陰から目が離せなくなる。無意識のうちに伸びた指がちょっぴり温度の低い頬に伸びかけて、気づけば一歩、開いた距離を詰めるように足がそちらへと動いている。隣に立った時、少し低い場所にある綺麗な髪の先に唇を寄せてしまいそうになる。
一番困るのは、声。
遠くで誰かと話す音を勝手に脳が拾い上げ、姿が見えなくともくすくすと笑う声が届く度に脳裏に笑った顔が形作られる。笑顔ならまだいい方だ。時折それが、薄暗い中で浮き上がる白い肌の輪郭をなぞって浮き上がらせるから、本当にどうしようもない。
ただでさえ後ろめたいのに、それが今みたいに戦闘中に生じてしまえば罪悪感でずんと胸が重くなる。
それほど性欲が強い方ではないと思っていた。
四日に一度処理すれば十分で、それ以上の欲を覚えることは滅多になかった。
なのに、布切れ一枚も挟まず直に触れ合う肌の温度を知ってしまえば、もういけない。
自分以外の体温に触れて、隙間なくぴたりと寄り添う心地良さを思い出してしまえば、四日の間を開けることなくずくりと腰が重くなる。何の唐突もなくいきなり、無性に触りたくなって、触って欲しくなる。ぐつぐつと湧き上がる衝動のままに動いて、その手をとって駆けだしたくなる。誰の目も届かない場所に連れ込んで、その唇を存分に貪ってしまいたくなる。
まさか自分の中にそんなものがあるなんて、知らなかった。前触れもなくむくりと湧き出す欲求には、振り回されて戸惑うことばかり。
どうすればうまく付き合って行けるのか未だ正解が分からなくて、日々手探りで内なる熱を飼い慣らす方法を探しているところだ。
結局、目的の素材を集め終えるまでに、背後からの奇襲は三度。
不埒な思いを払うべく努めて集中していたせいか、前線で戦っていた仲間の手を借りることなく対応できたことに、少しだけほっとする。
合成鬼竜に連絡をとり、開けた場所で迎えを待っている間。
アルドから少し離れた場所、伸びをしていたマイティとばちりと目が合った。
後ろめたさも手伝ってそろりと視線を外そうとしたアルドだったけれど、その前にマイティの目が柔らかく細められたから、目を逸らすタイミングを失ってしまう。
がっちりとアルドの視界を捕まえたまま、薄く笑んだマイティはとんとんと指で喉のあたりを叩いて、ぱくぱくと何か唇を動かして伝えようとしていた。
しかし残念ながらアルドには、口の形だけで言葉を読み取るような器用な真似は出来ない。何だろうと首を捻ると小さく肩を竦めたマイティが、するするとアルドの方へと近づいてきた。
あっという間に距離を詰めて隣に並んだマイティの指が、アルドの手の甲にちょんと触れて、すぐに離れていった。仲間たちはその一瞬の接触に、誰も気づいた様子はない。けれど確かに触れた自分とは違う手の熱が妙に生々しくて、とくんとアルドの心臓が跳ねる。
ちらりと横を見れば、にこにこと笑っているマイティがいる。その表情は、みんなといる時とさして変わりない。
だから誰もアルドたちを不自然に思わない。二人の間に横たわる距離は、二人きりの時より幾分遠かった。
そうしてまるで世間話をするかのように、ただの仲間の顔をして、仲間の距離を保ったまま、マイティが。
アルドだけに聞こえる小さな声で、囁いた。
「……アルドが可愛い声で啼くから、興奮しちゃった」
へへへ、と笑った顔はひどく穏やかなもので仲間の顔のままだったから、すぐには何を言われたか分からない。
耳に届いた音が意味するものを頭が理解するまで、しばし。
ようやくそれが、先の戦闘中にアルドが感じたものと同じ事を指すと気づいて、かあっと頬が熱くなる。
思わずまじまじとマイティの顔を見つめれば、微笑みの形に細められた瞼の奥。瞳に宿る色が二人きりの薄暗い部屋の中、真っ直ぐに向けられたものと同じと気づいて、頬の熱があっという間に全身に広がってゆく。落ち着こうと吐き出した息はやけに湿り気を帯びていて、唇を濡らし余計に熱を煽るばかり。腰の辺りには覚えのある痺れが、じわりと忍び寄ってきた。結構まずい状態だった。
そうして突き上がる欲求に気を取られているせいもあって、うまい言葉が見つからずぱくぱくと口を開いては閉じるアルドの手の甲に。とん、と再び触れてきた指が、さっきよりも幾分か熱い気がして。一瞬でなくしっかりと熱が移るまで添えられた指が、離れる間際、まるで誘うようにするりと指の間を撫でていったから。
たまらず、ごくり、飲み込んだ唾の音が。
やけに生々しく耳の奥に響いた。