パブロフの犬


アルドのいる時代より先の時間に生きる仲間たちは、時間を遡るとたまに体調を崩すことがある。
例えば天候だったり、気温だったり、食べ物だったり。そういうものの刺激に、あまり強くはない。
未来ではエルジオンを始めとした都市はどこも透明なドームに覆われていて、その中は人が過ごしやすい気候に常に整えられているらしい。そんな環境の中で生まれてからの殆どの時間を過ごしてきた未来の仲間たちは、極端に暑かったり寒かったり、湿っていたり乾いていたりする状況にあまり慣れておらず、長く過ごすと不調が滲む。食べ物に関しても同じで、よく火を通していないものや生水を口にすると腹を下しやすい。
幸いにして未来には便利な薬や道具もいっぱいあるから、仮に調子が悪くなってもさほど長引きはしない。薬を飲んだり栄養剤を補給して、しばらく寝ていれば元気になる。
しかしだからといって、顔色の悪い仲間の事が心配じゃないかといえば全くそうではない。いくらすぐに治ると分かっていても、調子が戻るまでは気になって仕方ない。

今回運悪く調子を崩したのは、マイティだった。宿で出てきた飲み水が合わなかったらしい。腹具合の悪そうな様子に、慌てて薬を飲ませて次元戦艦に連れ帰り、人間用にと用意された仮眠室のベッドに寝かせること数時間。
戦艦クルーたちが作ってくれた白粥の入った容器を持ってアルドは、音を立てないようそっと仮眠室に忍び込む。
寝かせるのが一番だと知ってはいるけどやっぱり心配で、少しでいいから顔が見たかった。
仲間として心配なのは勿論のこと、それ以外の意味でも。
なにせアルドとマイティは、仲間であると同時に恋人同士でもあったから。

声をかけるつもりは無かった。ちょっと様子を見たらそれで満足して、白粥を置いてすぐ立ち去るつもりだった。

「……アルド?」

けれどベッドの脇に立ってそっと顔を覗き込んだ瞬間、眠っていた筈のマイティの目がぱちりと開く。

「悪い、起こしたか? ごめんな」
「ううん、ほとんど起きてたから大丈夫だよー」
「それならいいけど。調子はどうだ?」
「んー、もう大分いいよ。沢山寝たから、いつもよりすっきりしてるぐらい」
「そっか」
「でもまだちょっと眠いかなー」

起こしてしまったかと潜めた声で謝れば、寝転がったままのマイティがやんわりと目を細めて微かに首を横に振る。顔色は随分と良くなっていて、寝起きのせいか声は掠れていたけれど無理をしている様子はない。ふわぁ、と大きく欠伸をする姿はいつも通りのマイティに近いようにみえた。
思わずほっと安堵の息をついたアルドは、少し迷ってから近くにあった椅子を引っ張ってきて、ベッドの傍に腰を下ろす。

「まだ夜まで時間はあるし、ゆっくり寝たらいいよ。あっ、これの中身はお粥な。魔法の瓶? とかで、時間が経っても温かいままらしいぞ。未来の道具はすごいな。だから好きな時に食べてくれ」
「ふふふ、分かった。ありがとう」

寝入る邪魔にならないよう抑えた声でひそひそと話しかけながら、とろりと声が沈んでゆくマイティの腹のあたりに掛け布の上からそっと手を置いて、ゆるゆると撫でさする。昔、フィーネを寝かしつける時によくやっていたのを思い出したのと、腹が冷えないように少しでも暖まればいいと思ったから。
けれど数度手を動かすと、眠りかけていた筈のマイティの身体がびくりと震える。少し驚いて宥めるようにまた数度撫でてやれば、ふうっと長い息を吐いてぱちりと目を開いたマイティが、どこか気まずげな様子でおずおずと呟いた。

「……ごめんアルド、それ、止めてもらえる?」

それ、と言った視線の先にあったのは、マイティの腹に乗ったアルドの手のひら。慌ててぱっと手を離したアルドは、きゅうっと眉を寄せて頭を下げる。

「ごめんな、痛かったか?」
「ううん、そうじゃなくて……」

良かれと思ってしたことだったけれど、まさかそれで痛みがぶり返したのだろうかと、急いで席を立って新しく薬を貰いに行こうとすれば引き留められる。
アルドを止めたマイティの顔色は悪くなく、痛みを隠す素振りもない。けれど珍しく口ごもり言いにくそうにしているから、やっぱりどこか具合が良くないんじゃと再び腰を浮かしかけると、ようやくマイティが口を開いた。

「アルドさ、その……する時にさ。僕のお腹、撫でるでしょ」
「する時? ……あ! う、えっと、……そう、だっけ?」
「……うん、そうだよ。大丈夫か、辛くないか、って言いながら。……挿れたあととか、出したあととか」
「あ、ああ、そういえば」

する時、と言われて一瞬、何のことか分からなかったけれど、恥ずかしそうに目を伏せるマイティの姿にすぐに何のことか思い当たる。つられてアルドも微かに頬を染めつつも、心当たりがなくって首を捻れば、続けられた言葉にようやく理解が至った。
さほど回数は多くないけれど、恋人同士になってから何度かマイティを抱いている。その度、受け入れるマイティがひどく苦しげに見えて、自分がとても酷いことをしているような気になって、何かするたびに逐一声をかけられずにはいられなかった。アルドが聞けばもしも苦しくたって、健気に大丈夫だと答えさせてしまうと分かっているのに、それでも確認せずにはいられなかった。
それで、確かに。半ば無意識ではあったけれど、アルドを受け入れたマイティの腹を、撫でる癖がついている気はする。その内側にアルドのものを包み込んだマイティの腹を何度も撫でることで、少しでも痛みや苦しさが引いて楽になればいいと願って。
アルド自身小さな頃、痛む場所を暖かな手で摩ってもらうと、とても楽になった記憶があったから。
やわやわと撫でられるのはアルドにとっては気持ちのいいことだったから、マイティにもちゃんと気持ちよくなってほしくて。

「もしかしてあれも嫌だったか? ごめんな……」
「だから、そうじゃなくってさ」

けれどもしかしたら、それもマイティに苦痛を与える行為でしかなかったのだろうかと今更ながらに気がついてしゅんと肩を落とせば、もどかしげに首を横に振られて否定される。
じゃあ一体、何がマイティにそんな顔をさせてしまうんだろう、と確認しようとすれば、アルドが尋ねる前に布団の端から出した指でちょいちょいと呼ばれる。それに従ってマイティの顔に自身の顔を近づければ、そっと耳元に息の形で囁かれた。

あのね、だから僕、アルドにお腹撫でられると、それだけですごく気持ちよくなっちゃうんだよ。

衣擦れの音にかき消されてしまいそうな小さな音は、しっかりとアルドの耳に届いてうわんうわんと奥の方で反響する。
それだけですごく気持ちよくなっちゃう。
気持ちよく。きもち、よく。
何度も何度も耳の奥、掠れた息の音が形作った言葉が繰り返されて、噛み砕かれてその意味が脳に届いた瞬間。
ぼふり、と音が出そうなほど、一気にアルドの顔が熱くなった。

「……ご、ごめん?」
「へへへ、いいよー」

咄嗟に何を言えばいいか分からなくてとりあえず、ひっくり返りそうな声で謝罪の言葉を口にすれば、もじもじと恥ずかしそうにしていたマイティがようやく、ふんわりと目元を緩めて微笑む。
アルドの分かりやすい動揺を目にして、逆に落ち着いたらしい。
あわあわと視線をぐらつかせて、ごめん、無意識で、と片言の言い訳を連ねるアルドに、うんうんと頷いて、嫌なわけじゃないんだよ、と諭すように繰り返す。

そうして、ようやくアルドの動揺も落ち着きを見せ始めた頃。
くるり、茶目っ気を滲ませて瞳を煌めかせたマイティが。

ちゃんと治ったらさ、いっぱい撫でてよ。

そんなとんでもない言葉を残したかと思うとあっさりと目を瞑り、すぐにすやすやと規則正しい寝息を立て始めたから。
再度激しい動揺の波に襲われたアルドは、ともすれば意味も無く叫び出してしまいそうな衝動を、ぐっと喉奥で堰き止めて堪え、そして。
すっかり行き場を失くした両手を持て余し、しばしの間うろうろと宙をさ迷わせたのだった。