ひとつ


暗闇の中から、ひゅうっと意識が引き上げられる気配があった。

重たい瞼を無理矢理にこじ開けて、一番に飛び込んできたのはぼやけた視界に滲むセティーの顔。
ぱち、ぱち、瞬きをすれば目尻からぽろりと熱い雫が耳の後ろを伝って落ちて行って、少しだけ視界が鮮明さを取り戻す。すぐさま熱は引いて細く一筋、ひやりと冷たくなった頬に、世界を滲ませていたのは瞼の下に溜まっていた涙だったのだとぼんやりと理解した。
幾分はっきりとした光景の中、なぜだかセティーはバツの悪そうな顔をしていて、ぱちぱちとアルドが瞬きを重ねれば気まずげにそっと目を伏せてしまう。

ひあ、ふあ、ひぁあん。
絶え間なく響く音は分厚い膜の向こうでかき鳴らされてきるかのようにくぐもって聞こえるのに、ごくごく近くで発生しているような気もして、源がなかなか掴めない。
するとまた一つ、ひぃぃ、引き絞られた喉から漏れた息が空気を切るような高い音が鳴り、同時にひゅうと吸い込んだ息が、ひん、と小さく空気を震わせたから、そこでようやく、アルドはそれが己の口から漏れているものだと気づく。

(ああ、そうだ、オレ、セティーと……)

奇妙な音の出所を自覚したアルドは、芋づる式にどうしてそんな音が自分の口から漏れているのか、その原因を思い出してゆき、記憶と感覚がじわじわと微睡みに溶けた脳の底から湧き上がってきた。
久しぶりに、おそらくは確か、一月ぶりにセティーと身体を重ねて、前戯もそこそこに性急に交わり、抜かずの三発。珍しく余裕のないセティーにがつがつと貪られ、追い上げられるままに募る快感をうまく咀嚼できないまま内側に溜め込んでしまったせいで、容量を超えて気を失ってしまったのだ。
落ちる寸前、急速に白んでゆく視界の中、セティーの前髪が汗でしっとりと湿って額にぺたりと張り付いていた事が、やけに印象に残っていた。

どれくらいの間意識をなくしていたのかは分からない。けれど多分、一瞬ではない筈だ。もしもほんの短い間なら、セティーがそんな後ろめたそうな顔をする筈がない。未だ身体の中に埋まっていたそれは萎えるどころか固いままで、はっきりと現状を認識する前、口から漏れていた音は、穿たれた奥が内側をぐっと突き上げた衝撃で、肺から押し出された空気が勝手に喉を震わせたものだろう。
つまり、きっと。アルドが気を失っている間も、セティーはせっせと腰を動かしていたに違いない。伏せた目の作る影で、おおよそ察せてしまうくらいには、誰よりも近い距離、アルドだけが見ることの出来るセティーの表情を独り占めにしてきた。

意識のないオレ相手に、セティーってばひどいなあ、と冗談めかしてからかおうとしたけれど、うまく言葉には出来なかった。呟いた筈の言葉はうまく喉を震わせてはくれぐ、すかりとから振って、ほんのりと湿った空気が唇から漏れただけ。
仕方が無いから代わりに、腕を持ち上げてセティーの頬に触れようとする。そろそろ、こっちを見て欲しかったから。
けれどそちらも上手くいかない。すっかりと脱力しきった腕を持ち上げようとすれば、それは鉛のように重く、僅かに動かすだけで精一杯だ。
それでも動いた気配は伝わったらしい。やっと視線を上げたセティーが、そっとアルドの手の甲を自らの手で包んで持ち上げ、セティーの頬に触れさせてくれる。
まさしくアルドの思い描いた通りの場所に達した手のひら、触れた頬の淡い産毛を指先に感じながら、ふにゃりとアルドは目尻を下げた。アルドがセティーの心情を察することが出来るようになったのと同じように、セティーもアルドの心を汲み取ってくれたことに、くるくると柔らかく喉をくすぐられたような、こそばゆい心地良さがあった。

以前に較べれば分かる事は増えたといっても、言葉を交わさず何もかも察し合えるほど、長い付き合いではない。育ってきた環境も、考え方や感じ方も似ている所より違う所の方が随分とあって、同じ方向を向いている筈なのに盛大にすれ違って空回ったことも、一度や二度じゃない。
フィーネやダルニス、メイにノマルなんかは、ずっと一緒に育ってきたおかげか、言葉を尽くさなくったってちらりと向けた視線だけで意図を組むことが出来て、たとえば戦闘中、何も言わずともアルドが一番ほしいタイミングで、ぴったりの攻撃や援護をくれる。
そんな場面に居合わせたセティーがやるじゃないかとアルドたちの健闘をたたえて笑って見せつつ、どこかに痛みを抱え傷ついた瞳をしている事も知っていて、だけど気づいたからといってどうにもならない事でもあるから、アルドはその分セティーに向けての言葉を惜しまないように常々心がけてきた。
それでも、いいや、だからこそ。
たまに、こんな風に言葉もなく、ぴたりとお互いの思考が重なって交わった時には、胸にじわんと甘いものが湧き出る。照れくさいような恥ずかしいような、嬉しくって飛びつきたくなるような、幸せな気持ちでいっぱいになって、自然と笑みが浮かんでしまう。

セティーはもうちっとも動いていなかったけれど、アルドが息を吸う度、ぎゅうと締まる内側の肉が包むセティーの形を浮き彫りにする。意識を落とす前、散々に煽られた熱は散るどころかぶわりと身体中に広がっていて、少し身動ぎするだけで、ひくひくと勝手に腹の奥が疼いてまた気持ちよくなってしまう。
限界を突き抜けた快感はまるで、どろどろに溶けた温い液体みたいにアルドを浸していた。アルドの中にいるセティーの形は感じ取れるのに、自分の輪郭すらあやふやでどこにあるのか分からなくって、触れた肌の熱はぴったりと同じ。どこからがセティーでどこまでがアルドなのか、その区分をうまく掴み取ることが出来ない。
まるで二人で一つの生き物になった気がして、ひどく幸福な気持ちでふふふと笑えば、その微かな振動でまた、一層ひたる快感の粘度が増し、ふぁ、唇から意味をなさない声が漏れた。
言葉はろくに紡げなかったくせに、快感を受け止めた音は吐き出せる自分の身体の現金さが少し面白くって重ねて笑う。絶えることなく膨らんでゆく笑い声のせいで腹に力が入れば、笑い声に合わせてびくびくと身体が跳ね、くつくつ、空気を震わせる息の合間に、ひ、あ、短い単音の嬌声が混じった。

アルドの笑い声を受けたセティーは、頬に当てたアルドの手の甲をぎゅうと握り込むと、そのまま顔を近づけこつりと額を合わせると、間近に迫った瞳にアルドを写し、やんわりと目を細めて腰をぐっと押し付けてくる。身体の芯、最奥を抉る切っ先に、少しばかり吐き出す息は浅くなったけれど、セティーはそれ以上動こうとはしない。額はくっつけたまま、擽るように鼻先をアルドに擦り付けると、ふふふ、と笑ったセティーの息が、アルドの顔を柔らかく撫でた。
細められた目の奥にはほんの少し、泣きだしそうな気配があったけれど、一番近くでのぞき込むアルドはそれが、悲しさによるものではないと知っている。
だってセティーの瞳に写ったアルドも、同じような目をしていたから。
鼻の奥がつんとして喉の奥が塩辛く湿っていたけれど、胸に占めるのは悲しみではなく幸せで、嬉しくて愛しくて仕方が無くってそれが体中に巡って膨らんでゆくと、最後には込み上げた感情が優しく涙腺を刺激して泣きたくなってしまう。
たとえば、嬉しくて、感激して、安堵して。負に染まってはいなくても、強く心を動かされれば涙が零れることは知っていたけれど。
激しい感動とはまた違った、穏やかにひたひたと寄せる幸福が積み上がっても人は泣けるのだ。セティーと抱き合うようになって、アルドが知ったことの一つ。

やがて静かに抱き合ううち、あやふやになってゆくのは輪郭だけでなく、体と心まで。全てが溶けて混じりって、一つになってゆく。ゆらゆらと揺蕩う快感が、泣きたいような幸せと見分けがつかなくなってゆき、ぴくりと震えた内側に生まれる痺れが幸せの色と変わりなくなってゆく。あ、あ、漏れる嬌声がスパイスのように混ぜこまれ、ぎゅっとくっついた肌の境界の感覚の喪失が、じんと脳を撫でて更に心地良さを高めてゆく。何もしていなくても息をするだけで気持ちがよくて、それだけで一度達してしまったほど。

(ずっと、このままでいたい)

溶けきったアルドの真ん中、浮かんだ想いはけして現実的なものではない。
だって、アルドにもセティーにもお互い以外に大事なものが沢山あって、きっとお互いを一番に据えることは出来ないし、他を全て切り捨てる事も出来ないし、しようとも思わない。
いずれ抱き合う時間は終わり、数時間もしないうちに二人は別々の生き物に戻り、抱える大事なもののため、それぞれ違う方向を向きまた歩いてゆく。
視線だけで全て通じ合うことは出来ないのは勿論、言葉を尽くしたって完全には理解出来ず、すれ違うことだって他の仲間よりも多いくらい。
そんなセティーにこそアルドは恋をして、焦がれたのだ。
ちっとも上手くいかなくっても、一つになるどころか二人があまりにも違う別々のものだと意識しても、そんな相手だからこそ強く心を惹かれて分かりたいと望む、その感情だって悪いものではない。試行錯誤を繰り返すほどにより深まってゆくセティーへの想いを、時々自分の中を振り返りしみじみと実感する機会は、永遠に一つになってしまえば二度と取り戻せない。それは困る。

それでも、この、ほんの一瞬だけ。今の一時だけ。
この一瞬が永遠であることを、願うことくらい許されるんじゃないか。ずっとずっとこのまま、境が分からなくなるくらいきつく抱き合って、どろどろに溶けてしまえればいいのに、茹だった頭で思うくらいは、大目に見てもらえるんじゃないか。他のことは何もかも頭から追い出して、溢れる幸福感に浸りきるのも、悪くないんじゃないか、誰ともなく言い訳をしてアルドは。
もっと、もっと、隙間なくくっついて一つになってしまえるよう。僅かに頭を持ち上げ添えた手の反対側、ぴたりと頬を押し付けてふわりと微笑んだ。