キスがしたい


キスがしたい。
ゆるゆると腰を動かしながら、セティーは熱の篭った息を吐き出した。
眼前には心地良さげにふにゃりと蕩けた恋人の顔。もう何度も達したあと、普段は精悍で涼やかな目元が赤く染まっているのを見るだけで、ぞくぞくとした高揚感が胃の底から一気にせりあがってきて、むずりと唇が痒くなる。誤魔化すように繕えばそれは笑みの形にしかならず、微笑んだ唇の隙間から吐き出す息に含まれる熱量はちっとも引かないまま。
明かりをつけたままの部屋、組み敷いた恋人の上にかかるのは、自らの影。わざと明かりを遮るように覆いかぶさって、光源を遮れば影の中にすっぽりと恋人が包まれる。けして自分一人のものだけには出来ないとどこかで思っている彼の事を、この一瞬だけでも何もかも余すことなく全て、自分の中に捕まえて閉じ込めたような甘い幻想を重なる影に見て、笑んだ唇はますます口角を上げる。

キスがしたい。
散々口づけて吸い付いて、何度か甘噛みすらした恋人の唇は、色づく輪郭をはみ出してその周囲まで赤く染まっている。見ようによっては少し痛々しい。それでもまだ足りない。
自分がどんな顔をしているか、自覚はあった。上機嫌をそのまま形にした唇、それで恋人の唇を塞いでやれば、甘い幻想が永遠になる気がする。思い込みでもいい。たった一瞬の中に、永遠を閉じ込めてしまいたかった。
ひどく幼稚で甘ったるい想像だとは分かっている。けれどそれでもいいのだ。今だけはそれを、セティーは自分に許している。二人で抱き合う束の間くらい、幸せな妄想に浸りきるくらい構わないだろう。たとえそれがいつかは終わるものだとしたって。

長く考えていれば、余計な事にまで思考が及んでしまう。そういう性分だ。恋人との時間に必要のないそれを軽くかぶりを振って追い払ったセティーは欲求を実行に移すべく、緩やかな速度で己のものを奥まで捻りこませると同時、恋人の口に触れようと顔を近づけた。

「ふぁあ……」

のに、だ。
セティーの目論見は、上手くはいかない。唇に触れる寸前、突然恋人の、アルドの口がぱかりと開いたからだ。
それも吐息や嬌声を漏らす時の、控えめなものではない。唇の端が切れそうなほど限界まで、喉の奥の口蓋垂が丸見えになる勢いで大きく大きく口を開けたアルドは、どう好意的に受け止めても欠伸にしか思えない音を漏らす。
そう、欠伸だ。恋人とのセックス中に欠伸。それもまだ挿入したまんま、それで欠伸。あくび。
固まったセティーに追撃は続く。一旦口を閉じてむにゅむにゅと唇を擦り合わせたアルドがまた、ふあああ、と大きく口を開ける。欠伸だ、気のせいではない、間違いなく欠伸だ。
セティーがそれを紛れもない現実だと認識した瞬間。

「……は?」

自分でも驚くほど、恐ろしく低い声が出ていた。



「ち、違うって、んっ、あのっ、聞いて、うあっ!」
「うんうんそうだな、退屈なセックスで悪かったな……っ!」

パンパンと響く皮膚と皮膚がぶつかる音の合間に混じるゴッゴッっという鈍いそれは、骨と骨がぶつかるもの。直前までの緩やかな抽挿をかなぐり捨て、アルドの両足を持ち上げて上から押しつぶすよう、手加減なしに腰を打ちつけるセティーは、控え目にいってブチ切れていた。プライドが傷ついたと言い換えてもいい。
セティーはアルドの事で頭がいっぱいだったのに、アルドはそうではなかったどころか欠伸をするくらい退屈していたらしい。とてもムカつく。
悲鳴にも似た喘ぎ混じりにアルドが必死に弁解しようとしているのは分かったが、聞いてやるつもりはなかった。欠伸なんてする余裕もないくらい、めちゃくちゃにして掻き乱してやる。そうでなきゃ腹の虫が収まらない。

「い゛っ! あ、やっ、あ゛っ、あ゛あ゛あ゛っ!」

途中まではどうにか言葉らしきものを紡いでいたアルドだったけれど、苛立ちに任せて思い切り腰を振りながら乳首を抓りあげてやれば、言葉が解けて意味を為さない音になる。目尻にはうっすらと涙が溜まっていた。
手荒いセックスは好きではない。ゆっくりと肌を合わせて二人で溶け合うような、穏やかなセックスの方が好みだ。
けれど今ばかりはとても止めてやる気にはならなかった。時間をかけてどろどろに溶けて重なっていると思っていたのはセティーだけで、アルドは全然そうではなかったらしい。なにせ欠伸をするくらいだ。
ムカつく、腹が立つ、忌々しい、壊してやりたい。

「アルド、アルド、なあ、アルド」
「うっ、ぐっ、んっ、んっ」

憎らしい唇から漏れるのは最早、嬌声というより内臓を内側から勢いよく突き上げられた衝撃による反射だった。苦しげなそれを聞きながらセティーは何度もその名前を呼び、胸の中でも同じ数だけ繰り返していた。

アルド、アルド、なあ、アルド。
今だけでいいから、俺の事だけ考えて、俺の事だけ見て、俺でいっぱいになってくれ。

荒々しい交わりは、セティーにも痛い。ゴツゴツと骨がぶつかるたび、少なくない衝撃が跳ね返ってくる。それでも埋めた楔は萎えることなく、もっともっと、貪るように求めて仕方ない。
絶頂の気配は近い。
少しでも奥にねじ込もうと一際強く打ち付けた腰、全体重をかけてアルドを押し潰す。ひゅっと微かに漏れた苦しげな息の音を無視して、二人を隔てる距離が少しでもなくなるよう、ぐっと体を押し付ける。

アルド、アルド、なあ、今だけ。
今だけ、全部俺にくれよ。

やがて来た射精の瞬間は恐ろしく気持ちがよくって、同時に。ひどく寂しくてたまらなかった。


白濁を放ってしばらく。荒い息と共に次第に冷静さを取り戻したセティーの中から既に苛立ちは去っていて、代わりに虚しさと悲しさが去来する。
抱き合う時はいつだって、セティーにはアルドの事しか見えていなくて、どんな瞬間でもアルドの事で頭がいっぱいで、アルドの事しか考えていないのに。この時間だけは何もかも忘れて、セティーはアルドのものに、アルドはセティーのものになれる。余計なものは何もなくってただ二人だけでいっぱいの世界に浸れると思っていたのに。どうやらアルドはそうじゃなかったらしい。
だって欠伸。目の前で見てしまったそれを思い出すと、ちょっぴり泣きそうになる。
眉間に皺を寄せてツンと痛い鼻の奥の湿り気をやり過ごしていれば、体の下、アルドが苦しげに身を捩ったのに気づく。そんな彼を無理に閉じ込める気にもなれず、セティーは素直に力を緩めてやり、ついでに萎えた陰茎を引き抜こうとした。

しかしそれは、アルドによって止められる。
離れようとしたセティーの首に腕を絡めてぐっと引き寄せて、腰に足を巻き付けてまるで出ていってほしくないとでもいうように、ぎゅっとしがみつかれる。
頬に湿った肌の熱を感じた途端、やり過ごしたはずの目の奥の痛みがぶり返した。期待させるような事をしないでほしい。

「セティー、ごめん、オレが悪かった」
「……あくび」
「うん、ごめんな」

少し掠れて、いつもより低い声。謝るアルドの言葉は真摯に響き、だからこそ余計に涙腺が刺激される。あまり口を開けば音の代わりに水気が溢れそうだったから、最低限。辛うじてぽつりと絞り出した声は、すっかりと不貞腐れた音がした。
そんなセティーの声を聞いたアルドは、抱き寄せた頭をそっと撫でる。優しく宥めるように、子供をあやすように。その柔らかな感触が心地よくて、気持ちがよい分だけ拗ねてひねくれた心も煽られて膨れ上がる。それこそまるで、子供みたいに。

「……どうせ俺はつまらないセックスしか出来ないんだ……」
「あー……いやだからそれは、そうじゃなくって……」

少しだけ機嫌は上向きつつあった。現金な話ではあるけれど、セティーを抱きしめるアルドの腕に、こちらへの気持ちをちゃんと感じられたから。たったそれだけで簡単に気分が浮上する程度には、すっかりとアルドに心を掴まれてしまっている。
まるでどうでもいいとは思われていないらしいことにほっとすると、安堵した反動でむくれた気持ちが顔を出す。多分それは、甘えにも似たものだ。心を寄せた相手にだけ見せることが出来るもの。ある程度落ち着いたからこそ、見せられるもの。もしも本気で腹を立てたり相手に見切りをつけて失望すれば、逆に何事もなかったように振る舞う性質だと自覚している。
殊更嫌味ったらしく恨みがましく言い募りながら、セティーはすりりとアルドの胸に額を擦り付ける。とくとくと響く心臓の音、直前までの交合の名残でいつもより僅かに速いそれに、嘘の気配はしない。
今欲しいのは、言い訳だった。アルドがちゃんと、セティーの事を好きだと分かる言い訳。セティーに嫌われたくないと縋るための言い訳。嘘でもいい、必死で言い募ってなりふり構わず縋って欲しい。そうすれば少しは溜飲が下がって、信じられる。
注意深く心臓の音、髪をすくう指先の動きに意識を向けながら、口ごもったアルドの言い分を待ち望む。

「セティーとえっちすると、気持ちよくって、安心しちゃうからさ……つい、眠くなっちゃうんだよ……」
「……つまり退屈ってことだろ」
「違うってば!」

鼓動は嘘で揺れない。声は偽りを乗せてはいない。アルドの動揺は分かりやすい。よほどではない限り、基本的に嘘がつけないと知っている。だから全部本当のこと。
完全に機嫌は直っていた。安心する、と言われるのは満更でもない。頭がおかしくなるくらいよくなってほしい気持ちはあるけれど、アルドが自分に安らぎを見出していると分かるのは悪くない。察しは良い方だ。それだけで十分、アルドが自分をどうでもいいとないがしろにしていた訳ではないと分かる。
けれど表面上は拗ねたポーズを崩さないまま。もっと、アルドの言葉で自分への気持ちを聞きたかったから。それで想いを推し量りたかったから。わざとひねた受け取り方をして、ぐい、と額でアルドの胸を押すと、セティーを抱きしめるアルドがしばらく言葉を探す素振りを見せた。

「こう、すごく気持ちよくってさ、頭がふわふわして自分が自分じゃなくなったみたいで、どっかにいっちゃいそうで、ちょっとこわいんだけど、でも、セティーがオレのこと、すごく優しい目で見てくれるから、ああこのままでも大丈夫なんだって安心して、セティーにつなぎとめられたまんま、ふわふわに流されるのはもっと気持ちよくって、それでふわふわしてるうちに、眠くなっちゃうっていうか……」

ちっとも纏まってはいなくて、抽象的だ。けれど拙い言葉で綴られるそれは、拙いからこそダイレクトに響いてくる。きゅっと唇を引き結んで、顔を顰めた理由は先程とは違う。そうでもしなければ、表情がだらしなく緩んでしまいそうだったから。まるで触れたアルドの体温が移ったように、頬が熱く火照り始めていた。
アルドがちゃんとセティーの事を好きだ実感できる言い訳が欲しかった。けれどいざ本当にそれを向けられてしまうと、むず痒くてくすぐったくて、照れくさくて恥ずかしい。もっともっとと欲張って欲しがるくせして、想定以上に与えられれば戸惑って動揺してしまう。求めてやまないそれを、きちんと受け取ることには未だ慣れていないのだ。

「本当に寝たら、そのままヤるからな」
「うんいいよ」
「道具も使う」
「うーん、まあ、いいか」
「写真も動画も撮る」
「分かった」
「……何でもほいほい頷くな」
「はは、ワガママだなあ。じゃあ、ううん。セティーにされていやなことなんてないし」
「……ずるいぞ」

照れ隠しでぶすりとした顔を作ったまま、要求を連ねていってみる。アルドの言葉をそのまま信じれば、そのうち最中に寝てしまう可能性もあるってことだ。安心しているが故だと理解して満足しても、きっと不満も抱くだろう。
連ねたどれかにアルドが少しでも難色を示せば、曲げた唇を本当にしてしまうつもりだった。ほらやっぱりそんなに好きじゃないんだろ、とこちらへ向けられた気持ちを理解した上での、難癖のような言いがかりで拗ねてごねて、こちらが照れた分だけアルドを困らせてやろうと思っていたのに。
思惑は上手くは行かない。綺麗に返り討ちだ。何をされてもいいよ、と囁くアルドの声は柔らかくて温かい。鼓動は落ち着いている。嘘である方がよほど良かった。本音と分かる言葉しか含まないそれは、あまりにも心臓に悪い。
返す言葉を失ってぐううと喉の奥で唸れば、ちゅっと額にキスを落とされて、セティーのそういうとこ、すごくかわいいよな、と甘い甘い声でアルドがとろりと呟いて、くすくすと笑う気配があった。
いよいよどんな顔をしていいか分からなくなって、顔面ごとぐりぐりとアルドの胸におしつける。少し息がしにくいがそれどころではない。うまく受け止められなかったアルドからの気持ちが胸の中から溢れて弾けてしまいそうで、それをどうにか噛み砕いて飲み込むのに必死だった。
それなのに。

「なあ」

もういっかい、する?

誘うように腰に絡めた足をぐいぐいと押し付けて、楽しげにアルドがそんな事を言い出す。思わずばっと顔を上げれば、悪戯っぽく笑うアルドと目が合った。

くそっ。
荒々しく吐き捨てたセティーはせめてもの意趣返し、赤く腫れたアルドの唇に噛み付いてきつく吸い上げながら、いつの間にか硬度を取り戻していた陰茎の先端で、アルドの弱い所を思い切り抉ってやる。
突然の再開に抗議するよう、きゅっと背中に立てられた爪が少しだけ痛い。けれどやっと一矢報いてやれた気がして、口付けたままセティーはようやく笑みの形を思い出し、口の端を吊り上げた。