アルドには言えない
村の外れの木の枝先に引っかかり、ひらひらと揺れる布を見つけたダルニスは、そのただの布切れに見覚えがある気がして、あれ、と家へと帰る途中の足を止め、木の根元まで近寄って見上げる。
近くで改めて確認すればやっぱりそれは、見たことのあるもの、アルドの手ぬぐいだった。覚えがあると思ったのは、ダルニスの勘違いではなかったらしい。
仕方のないやつだな、とちょっと笑ってダルニスは、膝を屈め地面を蹴りつけひょいと飛び上がる。一番下の枝に飛びついて、体全体を使ってゆらゆらと木を揺らせば、枝先の手ぬぐいがひらりと地面に落ちてゆくのが見えた。
すかさず枝から手を離し、ぴょんと飛び降りてそれを拾って、ぱんぱんと土埃を払ってから広げてみれば、間違いなくアルドのものだと、手ぬぐいの隅っこ、糸で縫い付けられた名前が示していた。
己の目は間違っていなかったとダルニスは満足げに笑ってから、少しだけ考え込む。
今すぐ引き返してアルドに届けてやってもいいけれど、既に日は沈みかけていて、完全に夜が訪れてしまえば、村の外れの家に帰るまでの道のりが少し心許ない。家で待っている父も、あまり遅くなれば心配するだろう。
(どうせ明日も会うんだ)
だから明日でいいか、と判断してダルニスは、アルドの手ぬぐいを懐にしまいこんで、足早に家への道のりを急いだ。
(眠れない……)
その日の夜。
さほど口数の多くない父との二人暮らしの家、部屋の灯りが落ちるのは村の他の家々に比べて、随分と早い。代々狩人を生業とする家系、朝はまだ陽も昇らないうちから起き出すから、必然的に眠につく時間も早くなる。あまりに活動を始める時間が遅くなれば、昨日のうち仕掛けた罠にかかっているかもしれない獲物が、起き出したゴブリンたちに盗られてしまう可能性が高くなるから。
ダルニスはまだ、父の仕事についてゆきはしないけれど、既に生活は狩人のサイクルに慣れつつあった。
しかしその日は、父と同じように早くから床についていたのに、目を閉じてもちっとも眠気がやってこなくって、布団の中、もぞりもぞりと何度も寝返りを打つ。
部屋の中には既に寝入ったらしい父の寝息がすうすうと響いていた。必要な時にきちんと睡眠をとれるのが良い狩人の条件だと教えられていたダルニスは、よく眠る父と眠れない自身を比較して、ちょっぴり落ち込んでしまう。
父の寝息に呼吸を合わせてみたり、寝返りを我慢してきゅっと固く目をつぶってみても、それでもやっぱり眠れない。
眠らなきゃ、と焦れば焦るほど、より眠気が遠ざかっていって、ちらりと掠めた睡魔すらひゅっと逃げてゆく気がする。身体の内側にぶすぶすと熱が燻って、眠気を端から焼いていっているような感覚もあった。
とうとうダルニスは大きなため息を吐き出してから、音を立てぬよう細心の注意を払ってそっとベッドを抜け出した。眠れない事で頭がいっぱいになって、余計に眠れなくなってしまったから、少し外の空気を吸って気分を変えようと思ったのだ。
そうして忍び足で床を踏みしめ、夜の寒さをしのぐため、近くの椅子にかけてあったマントを羽織ると、その近く、机にぽんと置いてあったアルドの手ぬぐいを見つける。明日忘れず返そうと思って、見つけやすい場所に置いておいたのだ。
特に意味があった訳では無いけれど、なんとなく、それも手にしてから、蝶番が軋まぬようそろそろと慎重に家の戸を開けて外に出た。
外に出てすぐ、ダルニスは夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、家の戸のすぐ傍の壁に背を預けて、ぼんやりと村の方を眺める。
すっかりと灯りの落ちた家とは対照的に、村の方角はまだぼんやりと明るく、夜の静けさの中、時折微かに笑い声が聞こえてくる。まだダルニスは行ったことはないけれど、村の酒場には毎日のように大人達が集まって、夜遅くまで酒を飲んで騒いでいるらしい。
まだ明るいうちからすっかりと出来上がった酔っぱらいに絡まれた事は何度かあったせいで、酒にあまり良い印象はなかったものの、いつかアルドと一緒に酒が飲めたらもしかして、楽しいかもしれない。
そんな事を考えているうち、ダルニスは持ち出したアルドの手ぬぐいの存在を思い出して、顔の近くまで持ってくる。どうして持ち出したか分からない布きれは、暗がりのせいで目の前に揺らしても、白さが浮かぶだけで輪郭すらはっきりしない。刻まれているはずのアルドの名前は、暗さに溶けてうまく読み取ることが出来なかった。
暇つぶしにもならないこれを、どうして一緒に持ってきてしまったんだろう、と自身の行動を不思議に思いつつ、そろそろ中に戻ろうとダルニスが手を下ろしかけた時。
ふわり、鼻を覚えのある匂いが掠めた気がして、ぴたりと動きを止めた。
心当たりは一つしかない、手の中にある布きれ。
下ろそうとしていた手を再び持ち上げ、暗がりの中手探りで鼻に近づける。
そうして、かさりと鼻先に布が触れた感覚があったと同時、再び匂いがふっと鼻をくぐり抜ける。
(アルドだ!)
二度目にして既視感の正体を探り当てたダルニスは、くんくんと更に臭いを嗅ぐ。
いつもアルドと一緒にいる時にはさっぱりと意識した事はなかったけれど、確かにそれはアルドの匂いだった。土と草の匂いがいつもより強いのは、多分今日、ヌアル平原で一緒に遊んたせいだけれど、それとは別の匂い。微かに香ばしくって、甘くって、ひどく馴染む匂い。似ているものを探そうとしても、まずアルドが浮かんでしまうから他のもので例えようがなくって、でもきっと、一番高くに昇った太陽に匂いがあるとするならば、こんな香りがするのだろうと思える匂い。
暗闇の中、視覚が頼りにならない分嗅覚が鋭敏になっていたのかもしれない。
ふんふんと匂いを嗅ぎ進めるうち、いつものアルドの匂いに少し汗の匂いが混じっていることにまで気づく。
もしもこれが、アルド以外のものだったら、嫌な気持ちになったかもしれない。たとえ自分のものであろうと、汗の染み込んだ布にわざわざ触れたいなんて思わないし、匂いを嗅ぐなんてもってのほかだ。
なのにその時のダルニスは、不思議と嫌な気持ちにならなかった。近づけた布を遠ざけるどころか、ますます鼻を寄せて熱心に匂いを嗅ぎとろうとすらした。
僅かに甘酸っぱくて、むわりと熱気を孕んでいるような、汗とアルドの匂いが混じり合った匂いは、何も見えない闇の中に汗を拭いダルニスに笑いかけるアルドの幻想を作り出す。自ら外に出たとはいえ、多少夜の闇に不安を覚えていたのかもしれない。その幻想は随分とダルニスの心を安らがせ、落ち着かせた。
けれど齎したのは、それだけじゃなかった。
これがアルドのものだと強く意識しながら匂いを嗅ぐうち、安心の中にちりちりとした熱が生まれ始める。ひどく落ち着いて体の力が抜けるのに、体の真ん中、臍の下あたりがずんと重くなって、ふわふわの毛玉を飲み込んだように胃の中がこそばゆくて仕方ない。
この不思議な感覚はなんだろう、と生じた未知に戸惑いながらも、ダルニスは鼻先から布を遠ざけはしなかった。
取り込んだアルドの汗混じりの匂いは、吐き出した息には含まれてはいないから、まるで匂い全てを体の中に取り込んでしまった心持ちになってくる。すん、と匂いを嗅ぐたび、体の内側がアルドでいっぱいになってゆく気がして、理由の分からない焦燥が頭の中にちかりと光った。
ずっと嗅いでいたくって、この香りに包まれていたいのに、このままゆけばまずいことになるぞとどこかでは自覚していた。こそばゆさは臍の下だけでなく、太ももや胸まで広がっていて、何度か腕を振って足を踏みしめ払おうとしたけれど、消えてはくれない。
やがてついには、心臓までもどきどきと変な風に騒ぎ始めて、かあっと体温が上がった事を自覚したから、とうとうダルニスは大人しく家の中へと戻る事にした。
もしかして夜風に吹かれて、風邪を引きかけているのかもしれない。狩人にとって日々の体調管理は重要な役割ことなのに、こんな間抜けな理由で熱が出たら困る。アルドとだってしばらく遊べなくなる。それは嫌だ。
アルドの匂いは名残惜しかったけれど、現実のアルドと一緒に遊ぶのとどちらがいいかと言えば、考えるまでもなく後者に軍配は上がる。
外に出た時と同じように、音を立てないよう慎重に扉を開けて、そっと元通りにマントを椅子乗せにかけてから、するりとベッドに潜り込む。
潜り込んでから、アルドの手ぬぐいを置いてくるのを忘れていた事に気がついたけれど、少し迷ってからダルニスは、そのまま抱えて眠ることにした。
眠る前、最後に一度だけ、と己を戒めながら、布を鼻に近づける。
瞬間、鼻の奥、口の中、喉の先までいっぱいに広がるアルドの匂いにそっと微笑んだダルニスは、ゆっくりと目を瞑る。
あんなにも眠れなくて仕方がなかったのに、近くにアルドの気配があるせいか、驚くほどすんなりと睡魔はダルニスを夢の世界へと連れていった。
その、翌朝。
目覚めたダルニスは、ベッドの上で呆然と固まっていた。
だって下着の中が冷たく湿っている感覚があって、てっきり、おねしょをしてしまったのだと思ったから。
もうそんな、おねしょをするような歳ではないのに、恥ずかしくって泣きたくて、アルドに知られたらどうしよう、幼馴染の弟分に情けない姿を知られたくはない心が、焦りを募らせダルニスから次の行動を奪ってしまう。
そんなダルニスを、混迷から救ってくれたのは父だった。
いつもなら起きてすぐベッドから降りてすぐ身支度を始めるダルニスが、固まって動かない姿に気づいて不審に思ったらしい。
羞恥で涙目になりながら、観念して正直に現状を告げると、父は微妙な顔になったあと、それはそういう事じゃない、と首を横に振って、ダルニスにまずは着替えるように告げる。
そういう事じゃないってどういうことだろう、不思議に思いつつダルニスが父の言葉に従って着替えを始めれば、確かに脱いだ下着についているのは黄色い染みではなく、白っぽい何か。
その正体については、寝室から出たダルニスを待っていた父が、朝食を食べながら教えてくれた。
淡々と、森の獣の生態について話すのと同じ口調で父が言ったことをまとめれば、要は人間にとっての発情期がきたのだということ。ダルニスは多少早めだったけれど、大体これくらいの年頃から兆候が現れるもので、不安に思うような類のものではないこと。
説明に加えて、いくつかの対処法と気をつける事を告げたあと、少し笑って頭を撫でてくれた父の手に、いつもなら安心しただろうけれど、今のダルニスの胸のうちは衝撃と混乱でそれどころではなかった。
だってダルニスは、知っている。
この現象については知らなかったけれど、獣たちの発情期の事も、村で話題になる恋物語のことも、その二つの本質は近しいものだということも。
昨日の夜、あんなに体を這いまわったくすぐったさもずんとした腰の重さも、朝にはすっかりと消えていて、すっきりと軽くなっていたことも。
ダルニスは、幼さの割に聡明な方である。
言われた内容の外に含むものを考えるだけの想像力もあり、頭の回転も遅くない。
だから、結びつけてしまった。
アルドの匂い、奇妙な感覚、今朝の出来事、全てを一つのものとして結びつけ、自覚してしまった。
これを齎したのは、ダルニスが発情した相手は。
幼馴染のアルドだということを。
いつか森で見た、獣の交尾のように。
幼馴染で、大事な友人でもあるアルドを、組み敷きたいと望んでいることを。
己に手酷く裏切られた気がして全ては間違いだと否定したかったけれど、一瞬、獣の交尾に重ねて浮かべたアルドの姿は、ひどく魅力的だったように思えて、導き出した結論をダルニスは否定しきる事が出来なかった。
違う、嘘だ、首を振るたび、鼻の奥に甦るアルドの匂いが甘ったるく脳を揺さぶり、覚えたばかりの吐精、吐き出すことを覚えた下半身を固く煽りそうになってゆく。
ついには二度目、精を吐き出すに至り、身をもって認めるしかなかった。
自分が、アルドに発情していることを。
他の誰でもない、アルドに興奮を覚えてしまっていることを。
いつか、あの、獣たちのように。
アルドと繋がりたいと、心が望んでいることを。
そして、初めて。
アルドには絶対言えない秘密が、ダルニスの中に生まれた。
手ぬぐいは未だ、ダルニスのベッドの隣、箪笥の引き出しの奥に眠ったまま。