お姫様には目覚めのキスを


溶け合う熱も触れた指も、背筋を貫く快感も。
何もかも本当みたいなのに、煙草をくわえるその横顔だけが、現実からはかけ離れていた。

情事後、気だるい身体をごろりと寝台に横たえたアルドはそのまま、視線だけを動かしてぷかぷかと煙を吐き出す男の横顔を見つめる。
いつもは頭を覆っている金属の板も、頬の傷も綺麗に消えてしまった左からの横顔は、アルドのよく知るロベーラのものとは違っているのに、まるで本物みたいで夢と現実の境を曖昧にしてしまう。もしかしてそれは現実のアルドが、何度かその機械の下の姿を想像した事があるからかもしれない。描いたものとさほど違わないロベーラの形は、ここが夢だと教えるには足りなかった。

唯一、くっきりと夢と現実の境界線を引くものは、立ちのぼる煙の筋の形。
穏やかにロベーラの胸が上下するたび、唇から吐き出される煙は様々に形を変えて上へとのぼり、やがて宙に溶けて消える。
いつもなら一つ息を吸っただけでげほげほと噎せこんでしまうから、煙はばらばらに散って残ることなくすぐに消えてしまうのに


一つ、二つ、三つ。
いくら煙の筋を吐き出しても、ちっとも咳き込まずうまそうに目元を緩めるロベーラ。
細く撚った糸のように幾筋も立ちのぼる煙だけが、これは夢だと無情にもアルドに教えてくれる。


夢の内容を、現実のアルドは覚えてはいない。
全てを思い出すのは特別な夢に足を踏み入れた時だけ、作り物の夢の中にいる間だけ。
正確には、夢とは違う。夢よりも現実に近くて、けれどやはり本当とは違う、仮想現実の世界。
そんな未来の夢の中にいる間だけ、アルドはロベーラにそっと寄り添って、唇を重ねて全てを明け渡す。まるで恋人同士のような睦まじさで。

最初は本当に夢だと思っていた。
整えられた寝台、機械の身体じゃないロベーラ、理解するより先に塞がれた唇。
性急に服を剥かれて、熱っぽい視線に射抜かれ 、固まったアルドの頬を愛しげに撫でたロベーラは、強引な行動とは裏腹に壊れ物を扱うように丁寧にアルドを抱いた。
抵抗は、しなかった。だって全部、夢だと思ってた。
抱きしめられた腕の力が妙に生々しかったけれど、抱きしめる腕は機械とは違う人の柔らかさをしていて、アルドのよく知るロベーラのものとは全然違っていたから。
苦しげに眉を顰めながらそれでもアルドを離そうとはしないロベーラの背中に腕を回し、大丈夫だからと囁いて与えられる熱にただただ酔いしれた。

ただの夢ではないと気づいたのは、二回目、夢を見た時。
見覚えのある寝台、機械の身体じゃないロベーラ、蘇る最初の記憶、目覚めたら忘れてしまった夢。同じ夢の続きだと言い切るにはあまりにも似通いすぎていて、不自然だった。

一度目と同じように被さってきた唇を手のひらで受け止めたアルドは、この奇妙な夢の絡繰りについてロベーラに問い質した。
もしかしてロベーラも何も知らないかもしれない、はぐらかされるかもしれない、本当にただの夢かもしれない。
問うてすぐにちらりと浮かんだアルドの考えは、少しの沈黙の後に口を開いたロベーラによってあっさりと否定された。

ここは夢ではなく仮想現実の世界であること。
アルドをここへ引き込んだのはロベーラであること。
ここでの記憶を現実のアルドは覚えていないこと。
だけどロベーラは全部覚えていること。
そうなるように調整をしたこと。

心当たりはあるだろう、と唇を歪めて笑ったロベーラに言われてそういえばと、アルドはこの仮想現実の夢を見る前の事を思い出す。
未来の宿で、ロベーラと二人部屋だった事。なんだかやけに眠たくって、早々に眠りに落ちた事。今回でなく前回も似たような状況だった事。

「あまり大掛かりな装置は持ち込めなかったんでな。この部屋以外には何も無い、狭っ苦しいユメの世界だ」

鼻で笑って呟いたロベーラは、もういいだろうと話を切り上げてアルドの頬に触れる。するすると服を脱がしてゆく手つきは鮮やかなのに、やっぱりその表情は一度目と同じ、苦しげで悲しそうで、泣いているように見えたから。
アルドもまた、一度目と同じように。
少しも抵抗することなく全てを受け入れ、暖かな生身の身体にぎゅっと抱きついて、閉じ込められた狭い部屋の中、あられもなく声をあげた。


そう頻繁のことではない。
毎回毎回ロベーラと同室になる訳ではないし、未来だけでなくアルドたちのいる時代やもっと昔に宿を取ることも多い。
頻度としては月が満ち欠けする間に一度か二度、せいぜいそれくらい。
けれどせいぜいそれくらいだとしも、繰り返せばしんしんと積もってゆく。擬似的な夢の中のでの逢瀬は、一つ二つと確実に重ねられてゆく。

好きだ、と言われたのは五回目。繋がっている最中に。
何度も何度も追い上げられて絶え絶えになった息で、オレも、と小さく言葉を返せば、泣きそうな顔で笑ったロベーラは静かに首を振って、勘違いだとひっそりと撥ねつけた。
六回目、七回目はアルドの方から。
オレはロベーラの事が好きだよ、と夢の最初、抱き合う前。しっかりと保った意識のまま、真正面から向き合って告げた。
それでもロベーラはアルドの言葉を受け入れてはくれなかった。諭すように勘違いだと苦く笑って、アルドの反論を許す前に口を塞いで強引に身体を暴く。

どれだけ言葉を重ねても、ロベーラはアルドの言葉を勘違いの枠に押し込めようとする。
確かに現実のアルドはロベーラに自分から特別に好きだと告げることはなくて、夢の中のアルドは重ねた体の心地よさに流されただけだと言われれば、悔しいけれどあながち間違ってもいない。

けれど流されるだけの下地はあったのだ。
その名前を見つけられていなかっただけで、抱えた気持ちは元からアルドの中に存在していた。
夢とは違う、現実の方。
たまに首筋の辺りにちりりとむず痒いものを感じることがあって、振り返ればいつもその先にはロベーラがいた。アルドが振り返った時には既にどこか違う方を向いてしまっていたから、果たして原因がロベーラであるのかは長く分かってはいなかった。
分かったのはエルジオンのぴかぴかに磨かれたガラス越し、ちりりと首元に馴染んだ感覚を覚えると同時に、ぎらつく視線をアルドに向けるロベーラの姿が写っているのを見つけてしまったから。
その険しい眼差しに最初のうちは、もしかして何か怒らせてしまったのかと思っていたけれど、アルドが振り返れば視線を外してしまうしそれとなく尋ねてもはぐらかされてしまう。原因はちっとも分からなかったけれど、少なくともアルドに対して怒りを抱いているようには見えなかった。
なのにやはりちりちりとした感覚、視線を向けられる事は依然としてあったから、アルドはますます困惑した。
怒りではない、けれど強い光を宿した瞳でじっとアルドを見ているのが、見なくったって分かる。視線にも重さがあることを、アルドは初めて知った。

妙な気になり始めたのは、視線の主に気づいてしばらくしてから。
首筋がちりりとするとそわそわと落ち着かなくなって、とくとくと鼓動が早くなる。ほんのりと頬が熱くなって、唾を飲み込む回数が増える。振り返って駆け寄ってしまいたくて、だけどはぐらかされてしまうことを想像するとなんだか悲しくなって、結局動けないまま。
ぐるぐると胸に渦巻く正体不明の気持ちの扱い方が分からなくて、持て余しかけてすらいた。

それの名前が分かったのは、一番最初の仮想現実の夢を見た時、アルドの唇にロベーラの唇が触れた瞬間。
訳が分からなくて混乱はしていたけれど、嫌だとはちっとも思わなかった。そして口の中を這う舌にとくんと心臓が跳ねて、顔が熱くなって、離れてゆく熱が寂しいと思って、ようやく。
胸に渦巻く気持ちの種類が、フィーネや仲間たちに向けるのとは違う、ロベーラだけに向けた好きだという事に気がついて、それの名前はおそらく。恋というのだと知ったのだ。

全部夢だと思ってた。だから抵抗しなかった。
起きれば消えてしまう夢の中でくらい、自覚したばかりの恋心を叶えてやってもいいじゃないかと、そう思ってしまったから。


何度好きだと伝えても、夢の中じゃロベーラは信じてくれない。
お前は全部忘れていいと悲しげに笑って、すまんなと自嘲しながら執拗にアルドを抱く。
いずれ違う時代を生きるお前に一つも傷を残したくないと寂しげに囁きながら、それでも夢をみたかったと切なげに長い息を吐き出して、快感に仰け反ったアルドの背中をキツく吸う。
一度だけと触った温もりが手放しがたくて何度も繰り返してしまうと懺悔めいて項垂れるのに、俺だけは全て覚えていくと熱っぽく呟いて奥を穿つ。
あまりに耳を傾けてくれないものだから、じゃあ勘違いだったとして、と不本意ながらアルドの方から譲歩までもしてみせた。

勘違いだったとしても、現実のオレも絶対ロベーラの事が好きだよ、好きになるよ。だから気づかせて。夢の中のオレが気づいた時みたいに。

アルドなりに夢と現実の折り合いを図った申し出は、荒っぽい口づけに飲み込まれる。そのまま誤魔化すように無言のまま何度も奥を抉られたその日、くゆる紫煙も見ないままに儚い作り物の夢は閉じてしまった。


ここでは何を言ったとして、ロベーラは信じてくれない。
ぼんやりと煙の先を視線で追っていたアルドは、ここのところロベーラに愛を告げることをしてはいなかった。
諦めた訳じゃない。けれどあまりに熱心に迫れば、ロベーラの眉間によった皺が増えて、その瞳が罪悪感で曇ってしまう。認めては欲しいけれど、悲しい顔もさせたくなかった。

四つ、五つ、六つ。
深い息と共に吐き出された煙の数を数えながら、アルドはどうすればいいかを考える。
手っ取り早いのは、ロベーラに口付けてもらうこと。そうすれば現実のアルドもすぐに抱えた気持ちに気がつくはず。夢の中じゃなけりゃロベーラだって、もう少しアルドの言葉を信じてくれるかもしれない。それでもダメなら、仲間たちの力を借りよう。
仮想現実のアルドがそう考えてる以上、現実のアルドだって自覚したならそう思うはずだ。自分だけの力で無理なら、周りを巻き込んでロベーラを捕まえてやる。
火をつけたのはロベーラの方だ。
視線であんなに煽って焚き付けておいて、その気にさせたら逃げるなんて納得出来ない。
お前のためだなんて言葉で、簡単に逃がしてなんかやらない。

七つ、八つ、九つ目を数えたところ、ふとアルドの頭にとある物語がよぎった。
昔、アシュティアが読んで聞かせてくれた話。気に入ったフィーネにねだられて、眠る前に何度も何度も読んでやったお姫様の話。細かい部分は忘れてしまったけれど、呪いにかけられて目が見えなくなってしまったお姫様を救うのは、王子様のキスだった。
少しだけ今の自分たちとその話が似ているな、とアルドは視線で煙を追いながら、小さく唇の端をつり上げる。
生憎ロベーラは現実のアルドの王子様にはなってくれそうになくって、アルドもお姫様なんて柄じゃない。
だったら、今度はアルドの方から。
王子様が来てくれないなら、アルドが王子様になってやればいい。お姫様はロベーラ。呪いはさながら、信じることが出来ない呪いといったところか。
駆け寄ってむすりと引き結ばれた唇に、思いっきり唇をくっつけてやって。
おはよう、オレのお姫様。
笑ってやったらロベーラはどんな顔をするだろうか。
想像しただけで面白くて楽しくて、くすくすと笑い出してしまいそうになる。

そのためにはまず、現実のアルドが抱えた気持ちに名前をつけてやらなくちゃいけない。それが何か知らなくちゃいけない。
夢のアルドは何もかも分かっているのに、伝える術がないのがもどかしくてたまらない。
やがて煙は薄くなり、短くなった煙草を挟んだロベーラの指が、灰皿に押し付けられるのを見届けてから、ごろりと寝返りを打って反対側を向く。
早く気づけよ、と眠りに落ちた自分自身の意識に向けて、アルドはそっと囁いて作り物の夢の中。
祈るように瞼を閉じた。