仮初の夜
スラム街、入り組んだ路地の奥にひっそりと存在するうらぶれたホテルの一室で。
隣から聞こえてくる寝息が規則正しく刻まれるのを確認したロベーラは、ひっそりと息を吐き出して、手のひらの中、真新しい煙草をぐしゃりと握りつぶし、近くにあったゴミ箱へと残骸を放り投げた。
本当なら一服したいところだったけれど、煙を肺に吸い込まぬよう気をつけたとして咳き込む確率は五分。ついでに隣で眠る青年が、ロベーラの喫煙を見つければ、分かりやすく顔を顰めて鼻の頭に皺を寄せ、近づくなと威嚇する程度には煙の匂いを嫌っていると知っている。
起きている時にはそんな彼を煽るようにわざと煙草に火をつけ、噎せる前に吐き出した煙を吹きかけるような真似をするのがすっかりと習慣になっていたが、今はとてもそんな気分にはならない。静かにひっそりと眠る彼の邪魔をするつもりは、これっぽっちもなかった。
隣で眠る彼、セティーの髪は幾分湿っていて、いつもならきっちりとセットされた前髪は乱れていくつかの束がぺたりと額に貼り付いていた。そっと指を伸ばして前髪をすくえば、少しだけセティーの眉間に皺が寄ったけれど、目覚める様子はない。
すくった髪を指で梳いてほぐし、またすくってはほぐし、繰り返すうちに刻まれた皺も次第に薄くなっていった。
セキュリティなんて無いに等しい安宿には、寝具さえもろくに揃ってはおらず、セティーが被っているのは薄いシーツ一枚だけ。さして線の細い方ではなく、どちらかといえば鍛えられて引き締まっている方だとよく知ってはいるけれど、薄暗い部屋の中、盛り上がったシーツが作る身体の線は、どことなく頼りなげに見えた。
その薄布の上から。
前髪を弄っていた指を段々と移動させ、輪郭をなぞってゆく。
まるで胎児のように横向きに丸まって眠る彼の、肩先を撫でて腕の形を辿り、途中で脇腹へと指先を逸らして硬い腰骨まで。
腰をやんわりと撫でてやれば、消えた筈の眉間の皺が再度浮き上がり、それ以上下に進もうとすれば弛緩した身体が僅かに強張った。丸まった身体が更に小さく縮こまる気配を感じたロベーラは、背中に手を回して何度か上下させる。そうするうち、強張りが解れてシーツを握りこんだ手の力が緩んだ。
その様子につられてほっと安堵の息を吐いた自身に気づいたロベーラは、苦く笑う。
始まりは、行きつけの酒場にて。
そこでたまたまかち合った彼は、既にしたたか酔っ払っていて、頑なに思いつめた様子だった。いつも彼と行動を共にしている筈のクロックとレトロの姿は見えず、一人きりで酒を煽る彼の姿は、控えめに見てもひどく危うかった。
顔見知りだったとはいえ、そう親しくもなかった相手。声をかける義理もなかったけれど、その頃にはCOAの厄介なエージェントとしてだけではなく、アルドの仲間としても認識していたせいで、放っておく事が出来なかった。
もしも彼に何かあれば、アルドが悲しむだろうと簡単に予想がついたから。セティーのためではなくアルドのために、仕方なく彼に付き合ってやる事にした。
最初はロベーラを見て大げさに顔を顰めたセティーだったけれど、隣に座って黙って酒を飲んでいればそのうち、ロベーラの存在にも慣れたらしい。そのまま二人、特に何を話すでもなく閉店までひたすらに酒をあおり続けた。
店の外で完全に据わった目のセティーにホテルへと誘われた時、断ることも出来たのに付き合うことにしたのは、放り出せば別の相手を探しに行きそうな気配があったから。それならまだ自分が付き合った方がマシだろうと、渋々了承して近くのホテルへと向かった。
部屋に入ったセティーは、情緒の欠片もなく手馴れた様子でロベーラをベッドに押し倒し、ロベーラのものを雑に手で擦って勃たせてから、機械的に腰を沈めて無言で一心不乱に腰を振った。
男を抱くのは初めての事ではなかった。若い頃には、それこそ行きずりの相手と寝たことだって、両の手では数え切れないほど。
けれど。ぐぷり、何の抵抗もなくロベーラのものを飲み込んだそこは、記憶にある誰のものより、男を受け入れるのに慣れきった形をしていた。
翌朝、目覚めた彼は、隣にいるロベーラを見つけてもちっとも動揺はせず、忌々しげにため息を一つついただけ。多少の気まずさを抱いていたロベーラを気にする様子もなく、てきぱきと身支度を済ませ、いつの間にか部屋の外に来ていたクロックとレトロと合流すると、淡々と口止めを要求してきた。対価にとクロックが引き出してきたデータはロベーラが抱えたいくつかの案件で、最終的にセティーの正義と相反はしないものの、やり方は非合法のそれでしかないもの。それにある程度目を瞑る、と言われたロベーラは臍を噛むよりも、馴れた様子にやはりこれが初めての事ではないのだと改めて理解して、ある意味ではその手際に感心してしまった。
それからだ。ロベーラがセティーと、定期的に体を重ねるようになったのは。
誘ってくるのはいつもセティーの方からで、初めのうちはふた月に一度あるかないかだったのが、段々と頻度を増して最近では週に一度ほどになっている。
回数が増えるごと、挿入はよりスムーズなものになってゆき、それなりに互いの良いところも把握して、一度の交わりで果てる回数も増えてゆく。
しかしどれほど繋がって身体が馴染んでいっても、セティーとのそれは、セックスとは近しいようで果てしなく程遠いものでしかなかった。
部屋に響く嬌声はいつだって、上っ面だけで空々しい。いかにも嘘くさい甘い声は、重ねれば重ねるほど空虚さを増していった。ロベーラに主導権を渡すことを嫌がり、騎乗位の形でセティー自ら腰を振ることを望む。戯れに口付けをしようとすればふいと顔を背け、前戯を施そうとすればぺしんと素っ気なく伸ばしかけた手を弾かれる。体を繋げても尚、気位の高い猫みたいにけして気を許そうとはしない。
まるで自傷行為のようだ、と抱いたロベーラの感想は、おそらくは的外れではない筈だ。?
ロベーラから手を伸ばすことを止めればほっと安堵したように表情が緩み、ろくに解しもせずいきなり後ろに受け入れて、痛みを堪える表情を浮かべながら口元に薄く笑みを刻んでいる。薄く色づいた肌、ひくつき絡む柔肉は身体の内に快感を抱えているとあからさまに示しているのに、いつだってその眉間にくっきりと刻まれた皺が、行為に溺れているにしては色とは程遠い苦さを主張していた。
相手はロベーラでなくとも構わないのだろう。誘われる頻度が増えたのは、単純に口止めが楽な相手だと思われての事に違いない。
けれどロベーラは、便利な性玩具扱いだなと内心で皮肉めいて嗤いはしても、彼からの誘いを断る事は一度もなかった。
毎回毎回きっちりと口止めの条件を提示してくるセティーの言葉に、首を横に振ることも可能だった。やり方によれば、逆手にとって彼を追い詰める事も難しくはない。
しかしロベーラはそれを選ぶことはしなかった。彼からの誘いがある度、たとえ何か用事が入っていようと、可能な限り都合をつけるくらいには優先順位を高い位置に置いていた。
回を重ねるうち、いつの間にか。アルドとは違った意味で、セティーもまた、ロベーラの中で特別な存在になりつつあったから。
好きだというのとは、違う。きっと愛してもいない。
アルドの旅に付き合う間は停戦協定を結んでいるものの基本的には敵対する事の多い間柄で、他のやつらを相手取るよりよほど面倒くさい要注意人物だと認識している。現に関係が始まってからも仕事でかち合えば口止め以上の手心を加えられる事はなく、苦渋を舐めさせられ舌打ちしたのも一度や二度ではない。
しかしどれほど厄介な相手だと身に染みて理解したとして、どうしても彼を放っておくことは出来なかった。仏頂面で差し出される誘いを、無碍に突き返す道を選び取ることが出来なかった。
セティーに向けた気持ちを一言で言い表すのは難しい。
けれどあえて言葉にするならば、おそらく近いのは、同類に差し向ける憐憫と、幾ばくかの憧憬。
それはアルドに向けるような崇拝にも似た眩い憧れとは違った、いつかの昔の自分自身に重ねて懐かしみ惜しむ気持ちによく似ている。
自分と同じだと言い切るにはまだ、彼は希望を捨ててはいない。抱えていられないとロベーラが諦め捨ててきたものを、必死で手の中に留め、傷つきながらもけして折れることなく試行錯誤を繰り返している。
同じだというには遠くにあって、けれど全くの別世界に住んでいると言い切るには近しい部分が多すぎる。
ロベーラの認識の中、彼はそんな微妙な位置づけを保っていた。
時に自分を痛めつけなければどうしようもないほどに苦しんで葛藤して、けれどそこで折れてしまう事無く折り合いをつけて、何度も立ち上がり傷つくと分かっても理想に向かって邁進してゆく彼の姿は、ロベーラの心を苦々しくかき乱すのに、同時に僅かに高揚もさせてくれた。自棄っぱちに腰を振った夜のあと、陽の光の中で我武者羅に己の正義に従う彼の姿を見れば、たとえ敵対する立場で相対していたとして、じわりと胸が熱くなった。
とうの昔に捨ててしまった何かをまざまざと思い起こさせられるようで、忌々しくてたまらないのに、いつか本当に折れてしまう姿を見たくもなくて、たとえ便利な道具としてだけでも、求められればそれくらい安いものだと差し出してやりたくなる。
浴びるように飲んで胃の腑を焦がすアルコールの代わり、太ももに突き立てて痛みを刻むナイフの代わり、内側を暴いて掻き回し穿つ楔の役割を求められるならば。
一時くらいは相手になってやるのも吝かではないと思える程度には、肩入れをしている自覚があった。
するりするり、背中を撫でてやるうち、もぞりとセティーが身じろぐ気配があって、結んだ唇が更にきゅっと引き絞られた。驚かせないよう、そっと背に添えた手を離せば、眉も苦しげに顰められ、閉じた目の端にふつりと水滴が盛り上がり、重力に従ってつうっと転がり落ちてゆく。
「父さん……」
部屋の中、小さく響いた寝言は一度だけ。
呟いた彼が依然として眠りの中にあると知っていながらロベーラは、聞こえないふりで数秒目を瞑り、ふうっと慎重に息を吐き出した。
好きだというのは、少し違う。きっと愛してもいない。
けれど目覚めている間はけして伸ばした手を受け入れようとはしない彼を、意識のない間くらいは甘やかしてやろうと思うくらいには特別で、おそらく、それなりに気に入ってもいるから。
一番最初はアルドを理由にして始まった繋がりの根っこを、彼個人にスライドさせても突き放す気が起きないくらいには、情が湧いてしまったから。
このままゆけば、目覚めた頃には目が充血しているに違いない。少しばかり瞼が腫れるかもしれない。
セティーが何をしているか知っていて着いてくることなく送り出し、けれどひどく心配もしているあの二体、クロックとレトロはそんなセティーの様子に必ず気がつくだろう。
セティーを泣かせたとまた、ちくちくと嫌味を言われてしまうだろうな、と既に何度も経験した彼らとのやり取りを思い出し、大きくため息をついて唇を皮肉めいた笑みの形に歪めたロベーラは、先回りしてセティーを起こし涙を止める代わり。
とめどなく流れる雫はそのままに、眠る彼の頭を何度も撫でてやる。
何度も、何度も、やがて眉間の皺が薄れ、穏やかな寝息が部屋にの中に響くまで。
何度も、何度も、安物の薄いカーテンの隙間から、白んだ朝の光が差し込むまで。