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その日も、ごくごく短時間ではあったけれど二人きりの時間を作り、レオナルドの口から響く柔らかな音をたっぷりと耳に焼き付けてから帰宅した。
いつもに比べれば幾分早い時間だったので、シャワーを浴びた後、すぐさまベッドルームに直行する代わりにリビングでウイスキー入りのグラスを傾ける。
度数の強いそれをちびちびと胃に送りながら、すっかりと惰性で続けている、レオナルドの妹の名を呼ぶ練習をする。
スティーブン一人きりのリビングに響いたそれはやっぱり、世界で一番大切な誰かの名前ではなく、唆して利用するに丁度いい女の名前にしかなってはくれない。

ミシェーラ、ミシェーラ、ミシェーラ。

何度も繰り返すほど求めるものからかけ離れてゆく音の羅列に、ため息をついて一気にグラスをあおる。
かっと焼ける喉に少々眉を顰めてから、ふと。
ある事を思いついたスティーブンは、すぐさま実行に移した。
あまりにレオナルドが柔らかく口にするものだから、つい、自分もとそっくりそのまま真似してみたけれど。
結局のところミシェーラ嬢というのはスティーブンにとって、神々の義眼保持者の妹、以上の意味は持たない。確かに聡明で芯の通った女性だとは思うけれど、あくまでそれだけだ。
だから、もしかして。
スティーブンの中で彼女よりも優先順位の高い相手の名前ならば、音の並びは違ったとして、宿る色はレオナルドのそれに近付くのではないか。

きっとアルコールが入っていなければ、思いついたとして実行しなかったに違いない。
用があって話の流れで名を呼ぶのとは訳が違う。
呼び止めるためでもなく、窘めるためでもなく、鼓舞するためでもなく。
己の中に存在するその人をそっくり切り出して、形にするために名前を紡ぐ。
出来るだけ優しく、心を込めて。
それでもし全く思う通りのものが出せなかったとしたら、いよいよスティーブンは深く落ち込んだだろう。
自分では大切に思っている筈の存在ですら、十把一絡げの有象無象に向けるものと同じ音でしか呼べなかったなら。想像して躊躇って怯んだことだろう。
自分自身にわざわざこれ以上失望する事は無いと、避ける事を選んだだろう。
そういう部分は案外、人並みに臆病である自覚はあった。

けれどスティーブンは、酔っていた。思考はそれなりに正常を保っているつもりだったけれど、自制の箍は多少緩んでいたらしい。
故に、深呼吸を一つして。
慎重に口を開いて呟いた。
まずは、己にとって一等大事な存在から。

「クラウス」

箍は緩んでいても、恐れはあった。
しかしいざ改めてその名を呼んでみれば、思っていた以上に優しく響いてくれたから、ほっと安堵する。
レオナルドが口にするミシェーラの名前よりは固い気もしたけれど、彼に向ける尊敬や信頼を鑑みれば全く同じでなくても良い気もしてくる。
クラウス、クラウス、と何度試してみても、色褪せる事なく変わらず特別に響くそれに俄然気を良くしたスティーブンは、続いて別の名前を口にしてゆく。

K・K、ギルベルトさん、チェイン、ザップ、ツェッド。

全く同じように呟いたつもりだったけれど、いざ音になって耳に入ってくれば、それぞれに違う響きを伴っているように思えた。
K・Kやギルベルトの名は尊敬や羨望が強く滲み、チェインには少し優しげで、ザップやツェッドのものはどことなくぞんざいだ。
けれどどれも、何度も練習したミシェーラの名前よりレオナルドのそれによほど近しいものに聴こえたから、スティーブンはふっと笑みを浮かべる。
こんな事ならもっと早く確認していれば良かった、だなんて安堵で大きくなった心で、他の構成員の名前も思いついた端から呼んでゆく。相手によって程度の差はあれ、さほど悪くは無い。
空々しく、或いは冷たく響いた例外のいくつかは、大なり小なり怪しいと思う所のある面々で、己は案外分かりやすいなと苦笑いを零した。

そうして、最後。
あえて避けていた名前を、慎重に舌の先に乗せる。
レオナルド。レオナルド・ウォッチ。
静かに囁いたつもりだったのに、リビングの壁に反響して残ったそれは、ザップやツェッドの名前を呼んだ時と似ているようで、けれど何か違うものも混じっているように思えた。
レオナルド。
その何かを見定めるために、繰り返し彼の名前を口にする。彼に対して普段からよく使う、名前とは別の呼称も織り交ぜて。

少年、レオ、レオナルド、レオナルド・ウォッチ。

ぞんざいで、気安くて、柔らかくて、ほのかに甘い。
まるでそれは、媚びを孕んだような。
次第に忌まわしきコットンキャンディに近づいてゆくような気配に、思わずスティーブンは口を閉じた。
ミシェーラの名前を練習した際、歪んでしまった音色と同一になってしまったら、スティーブンの中のレオナルドの立ち位置も変わってしまいそうで、恐ろしかった。

それなりにいい感じだったのに最後の最後、ケチがついてしまったなと独りごちて、空のグラスにウイスキーを注ぎ足す。
あまり深酒になっても困る。この一杯で終わりにしようと決め、半分ほど胃に流し込んだところで、気まぐれにもう一人、思いついた名前を呼んでみた。

スティーブン、スティーブン・A・スターフェイズ。

冗談半分で発した、自分自身を指し示すその言葉は、ひどく空々しく響くと壁にぶつかって空気に溶けた。
己の名を愛しむ趣味なぞこれっぽっちも持ち合わせてはいなかったし、まさか求める響きに近しいものが飛び出るなんぞ思ってもいない。

けれど、想像していたよりも遥かに。
それまで並べた誰とも違った響きのそれは、あまりにも空っぽで、無機質だった。
優しさは勿論のこと、苛立ちや猜疑といった負の感情すら何も宿ってはいない。
がらんどうの、ただの、音の羅列でしかなかった。

レオナルドの名を呼んだ時に感じた居心地の悪さとは全く別の、冷たい気配に一気に酔いがさめる。グラスに残った液体を、飲み干して始末する気にもなれなかった。
ひどく白けた気分になり、ローテーブルにグラスを置くと、はあ、とため息をついてソファの背に体重を預け天井を見つめる。

ミシェーラ。
きっかけの名前を、再び紡いでみる。
やはり結果は以前と同じで、何も変わらない。レオナルドのものとは、似ても似つかない。
もう一度、クラウスたちの名を呼んでみようともしたけれど、すっかりと変質してしまっていたらと躊躇いが先に立って、舌先に乗せたものの音にすることは出来なかった。

だから先程、唯一うまくゆかなかったそれを選んだ。
レオナルド・ウォッチ。
繰り返せば繰り返すほど妙に歪んでいったその名前なら、ミシェーラの名と同様に薄っぺらく響いても、ショックは小さいだろうと思えたから。

レオナルド・ウォッチ。

案外、響き自体はさほど変わらない事実に、少しだけほっとする。
幾分固さは増したし、奇妙な甘ったるさはしっかりと孕んだままだったけれど、辛うじてそれなりの柔らかさは保っている。
しかし。
スティーブンが変わらぬ事象に安堵した瞬間、耳の奥で微かに声が囁いた。

スティーブンさん。
今日はおかげでよく眠れそうです。
スティーブンさん。
おやすみなさい、スティーブンさん。

それはあの日、レオナルドがスティーブンに向けて発した言葉。いつもよりも随分と優しすぎる色のついていたそれ。ミシェーラを呼ぶものとは違っていても、それとよく似た暖色で包まれた柔らかな音。
耳の奥で響くその声が、ゆっくりと体中に広がって冷えた心を温めてゆき、じんと目頭を熱くする。
徐々に小さくなる声に慌てて、レオナルドの名を呼べばまた、スティーブンさん、とあの日の声が聞こえてくる。

少年、レオ、レオナルド、レオナルド・ウォッチ。

もっと聞いていたくって何度もその名を繰り返せば、声に混じる甘さの割合が増してゆき、どんどんと膨らんでコットンキャンディに近づいてゆく。
けれどミシェーラの名で試した時は下品な色を伴っていたそれを、ぽんと脳裏に浮かんだレオナルドの手に持たせてみれば、妙にしっくりと馴染んでしまった。どぎつい色のイメージがあったのに、レオナルドが握るものはいつの間にか、うっすらと赤く色づいただけのシンプルなものに変化している。

レオナルド。
もう一度、彼の名を口にすると。
頭の中のレオナルドが、ぱくりとコットンキャンディにかぶりついた。
そうして一言、うまい、と呟く。
あの日、スティーブンのいれたカフェオレを飲んだ時と、きっかり同じ調子で。

スティーブンさん。

レオナルドの声が聞こえる。
いつもより柔らかくて、優しくて、ほどよく温くなったカフェオレのような温度で。
あの日聞いたよりも、一層穏やかでまるで、宝物をそっと取り出して目を細めて見つめるような。
声を聞いただけでそれが、どれほど大切かありありと伝わってきて、じんと胸が痺れるような、それは。
ミシェーラの名を呼ぶ時の、あの。
レオナルドの唇から紡がれる音の中で、スティーブンが一等好きな言葉と、全く同じ色をしていた。

思わず両手で顔を覆い、膝に頭を埋める。手のひらに触れた頬の熱は今もどんどんと上がっていっていて、アルコールのせいにするには少々言い訳が苦しい。噛み締めた唇の間からは獣のような低い唸り声が漏れ、心なしか胸を打つ鼓動もスピードを上げてゆくような気がする。
深い呼吸を幾度も繰り返して気を鎮めようやく顔をあげても、依然として頬の熱は引かないまま。深々とため息を吐き出して、ぺちりと頬を叩いたスティーブンは、乾いた声で笑った。

レオナルドが語る、ミシェーラの話を聞くのが好きだった。
彼の唇から紡がれるその名前が一等好きで、耳にする度、人はこれほど優しく誰かの名を呼べるものかと、感動すら覚えていた。
それを聞きたいがためにわざわざ二人きりの時間を作っては砂糖たっぷりのカフェオレを作り、レオナルドに差し出し続けた。
全ては、彼の発する柔らかな音を耳に焼き付けるために。

そう、思っていたのだけれど。
もしかして、実際の動機はもっと単純なものだったのかもしれない。

スティーブンさん。
ダメ押しのように再度耳の奥で響いた音に、とうとう両手をあげて降参する。

レオナルドの口から飛び出す、優しい昔話に耳を傾けるのが好きなのはけして嘘じゃない。
けれど真実、本心から望んでいたことは、あの日みたいに、もう一度。
密やかな気遣いを滲ませた、優しい色を湛えた声で、レオナルドに名前を呼んでほしい。
そうして願わくば。
たった一言、口にするだけでそれが特別だと理解できてしまうあの、ミシェーラの名を紡ぐ時と同じ調子で。
或いはそこに、カップの底に溶け残った分の砂糖の甘さをプラスして。
スティーブンの名を、呼んでほしい。
そうすれば、自身で口にすれば空々しく響いた無機質な音に暖かな色がついて、それほど悪くないと思えそうだったから。
じわりじわりと身体の奥に沁みてゆき、内側から温めてくれそうな気がしたから。

言葉を重ねる代わりにたった一言呟くだけで、考えるよりも先にすとんと腑に落ちてしまう、説得力を持ったあの声で呼んでくれたならば。
疑り深い己でも、向けられた感情を丸ごと信じてしまえそうだったから。
それに包まれたらどんなにか幸せで心地よいだろうかと、想像してしまったら一層、体温が上がった気がしたから。


そして、スティーブンは。
あの日の夜、レオナルドに名前を呼ばれた瞬間、己の心の奥、生まれた気持ちがあったことにようやく気づく。
郷愁と呼ぶには些か甘すぎる、胸をぎゅうと締め付けるその何かの正体は、おそらく。
恋と、呼ぶのではないだろうか、と。
長い長い遠回りの末。
とうとう自覚するに至ったのだった。