冷たい夜は砂糖たっぷりのカフェオレと共に


レオナルド・ウォッチの唇から紡がれる音の中で一等好きなものは、彼の妹を示すことば。

ミシェーラ。
たったその一言だけで、細かな説明を加えずとも、それがレオナルドにとってどんなに大事な存在か、分かる。頭で考えるよりも先に、そういうものなのだとすとんと腑に落ちてしまう。
声に宿った柔らかな色が言葉よりも雄弁に、滲む親愛を惜しみなく示している。
自分の名を呼ばれた訳でもないのに、彼がその名を口にするたび、ぬるま湯につま先を浸したようなじわりとした温かさが胸の奥に宿る。
ひどく嬉しいような泣きたいような気持ちになって、震える喉の奥からせり上がってくる塊をゆっくりと飲み下す感覚は、けして心地よいものでは無いはずなのに、きっちりと全て飲み込んでしまったあとはまるで、声に宿った柔らかな感情を塊と一緒に体の中に取り込んでしまったような気すらして、ほんのりと腹の底が温かくなる。


最初からそれが特別だった訳ではない。
そもそもライブラに頻繁に出入りするメンバーの中で、レオナルドと一番繋がりが薄かったのはスティーブンで、必然的に彼のごくごく個人的な話や、それに登場する頻度が高い彼の妹の名を耳にする機会も、他のメンバーに比べて極めて少なかった。
けして不仲という訳ではない、と思う。
確かに初めのうちはスティーブンもレオナルドの事を随分と警戒して、人となりやバックグラウンドを見極めようとしていた。しかしどれほど探っても背後に怪しいものがみつからず、人格的にもなかなか好ましく簡単に裏切るようなタイプではないと分かってからは、それなりに良好な関係を築いてきた、筈だ。あくまで職場の上司と部下として、ではあるけれど。
ザップやツェッドのように私的な時間を共有するほど親しくもないし、クラウスやK・Kのように折に触れて気に掛けるほど入れこんでもいない。一見してさほど接点の見えないギルベルトやチェインともなにやら親しげに話し込んでいる姿を見かけたこともあるし、いつの間にかパトリックのところにもちょくちょく顔を出しているらしい。現場で何度か顔を合わせただけの構成員とも気づけば名を呼び合う仲になっていて笑いあっていて、ソニックを始め異界存在の友人や知り合いも随分と多いようだ。
そんな彼らとレオナルドの間にあるものに比べたら、スティーブンとレオナルドの関係は上司と部下から一ミリも逸脱することのない、レオナルドの周りにあるものからすればいささか素っ気ないものであったかもしれない。

しかしスティーブンにとっては、レオナルドとの間に横たわる距離感はちょうどよいものだった。
何も考えていないようにみえて案外、そういった人の心の機微には敏い方なのだろう。
レオナルドの手が空いている時は手伝いを申し出てくることもあるし、その合間に軽い雑談をすることもある。自主的にコーヒーを入れてくれたり、休憩を進言されることもあった。
だが、あくまで職場の上司に対する接し方から離れることはなく、スティーブンが触れてほしくない一線から常に二三歩、距離をとっている。仕事が立て込んで普段より余裕が無くなっている時は、その分だけ離れてくれる。
誰にでも馴れ馴れしく接しているように見えてその実、人によって適度な距離感を察し接し方を変えて対応しているところは、見ようによっては八方美人ともいえるかもしれない。
けれどスティーブンはレオナルドのそういうところを、案外気に入っていた。
これ以上距離を詰めるつもりはなかったし、あちらから近づいて来ることも望んではいない。良い意味でビジネスライクという言葉がしっくりと馴染む関係が、レオナルドとスティーブンの間に介在させるものとして一番適していると思っていた。


その、ちょうどよい距離に、僅かな変化が生じたのは、どうってことのないありふれた一日の終わり。
そう、本当に、ごくごくありふれた一日だった。スティーブンにとって、友人として付き合ってた筈の存在が突如牙を剥いて来るなんて、最早特筆するまでもない些細な出来事の筈。いつも通りの日常に収まる範疇にあるもの。
けれど初めから敵だと分かっている相手を始末するより、幾分、疲れる自覚はある。うんざりして嫌にもなる。さっさと忘れてしまいたくもなる。
だからその日も後始末を私設部隊に任せ、そのまま家に帰って休むつもりが、ふと、気が変わって事務所に足を向けた。
別段、何か用事を思いついた訳ではない。もう随分と遅い時間であるし、いつもならツェッドが奥の部屋に居るけれど、今の彼はつい三日前に解決した事件の余波でしばらくは病院暮らしだ。
だから誰かがいる可能性は、けして高くはなかった。
それでも尚、行く先を変える気にならなかったのは、つい先刻までのスティーブンの所業を知らない誰かに、やあお疲れ、と何食わぬ顔で告げたかったから。何気ない言葉で、誰かを労りたかったから。
別の言葉で言い換えるなら、無性に人に優しくしたい。そんな気分だった。

そうして辿り着いた事務所、居合わせたレオナルドはまさしくスティーブンの気分にうってつけの様相をしていた。
アパートの上の住人のシャワーが出しっぱなしで、部屋が水浸しになってしまい事務所に避難してきたのだと苦笑いで告げる彼は、スティーブンの気晴らしに付き合わせるにはひどく都合が良かった。
眠気覚ましにスティーブン自身が飲みたいからと理由をつけて、ついでを装いレオナルドにもコーヒーを入れてやろうと申し出れば、慌てて自分がやると言ったけれど、少々強引に押し止めて奥のキッチンへと向かう。
インスタントと豆を数度見やり、しばしの逡巡のあと、インスタントの方を選択した。
豆からコーヒーを入れる手間を惜しんだ訳では無い。そこまで手をかけてしまえば、何気なさの延長線上に置くには些か大袈裟過ぎる。湯を沸かして注ぐだけの手軽さが、丁度いい塩梅に思えた。
火にかけてさほども経たないうちに湯気を噴き出し始めたヤカンから、準備した二つのカップにたっぷりと湯を注ぎ、レオナルドの分にはミルクと砂糖を足しておいた。こちらもわざわざ温めることなく、冷蔵庫から取り出したミルクをそのまま注ぎ足すなんて横着をしたけれど、気取られずに行う自己満足の親切にはこれくらい大雑把な方がしっくり馴染む。

そうして二つのカップを手に戻ったスティーブンの気持ちは、その時点で随分と軽くなっていた。差し出したカップを受け取ったレオナルドが、へらりと笑ってありがとうございますと呟いただけで、目的はほぼ達成出来たといえる。
ソファに座って自分のために作ったコーヒーを口に含み、安っぽい味に僅かに眉を寄せたものの、疲れていた筈の心は上向いて凪いでいた。少し間をあけて隣に座るレオナルドが小さな声で、うまい、と呟いたのが聞こえれば尚のこと。
こんなちっぽけなことで、まだ自分にだって人に優しく出来るのだという事を確認して安堵している事実を自覚して、自嘲まじりの苦笑いを浮かべたスティーブンは、さっさとコーヒーを飲み干してしまおうとカップを傾ける。いざ確認作業が終わってしまえば、これ以上事務所に長居する必要もない。

しかし半分以上残ったコーヒーを一気に腹に流し込もうとしたスティーブンの行動を、止めたのはレオナルドの妹を示すことば。

「ミシェーラが」

両手でカップを抱え視線を落としたレオナルドが、柔らかく目尻を下げてぽつりと呟く。まるで大切な宝物を見るような眼差しを、スティーブンの入れたカフェオレに向けながら。

「いれてくれたんです。砂糖たっぷりのカフェオレ。僕が眠れない夜には、特別に」

いつもスティーブンと話す時には見せない柔らかな表情と声色で、胸の内に抱えた思い出をそっと取り出してみせる。
二人きりで私的な話をする機会は極めて少なかったけれど、レオナルドがミシェーラの話をする場面に一度も居合わせなかった訳では無い。クラウスやザップに話す姿を、少し離れた場所で見たことは何度かあった。
だからさして驚くような事でも無いはずなのに、なぜだかやけにその名前が胸の奥に突き刺さり、あと少しで空になるカップを一気に傾けてしまう気にならない。
適当な返事をして立ち上がればきっと、レオナルドは引き留めなかったろう。現にレオナルドがその先を語るまで、しばしの静寂があった。
けれどスティーブンは立ち去ることを選ばず、一息つくふりでカップから口を離すと、ふぅんとため息のような相槌を打って続きを待った。
たっぷりと間をとったあと。
再び口を開いたレオナルドが発する声は、先ほど耳にしたのと同じか、それ以上に優しげだった。

「僕とミシェーラの部屋は別々だったんすけど、隣同士だったから、眠れない夜にはまるで見えてるみたいに、コンコンって壁が叩かれるんです。お兄ちゃん、起きてるでしょ? 眠れないんでしょう、私分かってるんだから、ってミシェーラの声が聴こえてくるようで。それで知らんぷりすると、どんどん壁を叩く勢いが激しくなるから、最後には根負けして迎えにいっちまうんです。ミシェーラの部屋の扉をノックすると、待ち構えてたように車椅子に乗ったミシェーラがいて。お前さっきまで壁叩いてたのにいつの間に準備したんだよって聞いたら、秘密よって胸を張って、ほらほらって僕を急かしてキッチンまで連れてかせるんです。いつもは自分で動く癖に、その時だけは決まって僕に押させやがって、あいつ」

くすくすと時折笑い声を混ぜながら語られるその話に、スティーブンはなぜだか胸を掻きむしりたいほどの郷愁を覚える。レオナルドの語るような子供時代も、帰りたい場所も持ち合わせてはいないのに、不思議と懐かしい。
小さなレオナルドとミシェーラが、ベッドに寝転がって壁を叩き合う情景がまざまざと脳裏に浮かび、自然と唇が緩んでいることに気づいたスティーブンは、さり気なく指で口の端を押さえて動揺する。
けして子供が嫌いという訳では無いものの、殊更に好きという事も無い。取引先との雑談で語られる子供自慢や孫自慢では、愛想よく頷いてはいても塵ほどの感慨も抱けなかったから、己の心の動きが不可解でならなかった。

「車椅子に座ったミシェーラが使える高さのコンロがあって、それを使ってお湯を沸かすんです。ついつい手を出しそうになったら、お兄ちゃんは手伝っちゃダメよ、そこに座って待ってなさい、なんて怒られちまって。いつもなら電気ケトルを使うのに、そんな夜に限っては必ずコンロを選ぶんです。ミシェーラのやつ、しゅんしゅん湯気が噴き出すまで真面目くさった顔でヤカンを見つめてるから、僕までつられて見つめちゃったりして」

レオナルドの話は続く。
穏やかな調子で紡がれるそれに、まるで童話を聞かされているような心地を覚える。どこまでも優しくて、暖色でほんのりと色づいた世界。
そこまで喋ると一旦言葉を切ったレオナルドは、スティーブンがいれてやったカップの中身をまじまじと見つめて目尻を下げ、ふふふと笑った。

「ミシェーラの入れたカフェオレって、最後にドロドロの砂糖がマグの底にいっぱい残るんです。あいつ、これでもかってくらい砂糖いれるくせに、混ぜもせずにはい出来上がりって渡してくるから。ミシェーラに言わせれば、最後に残ったそれが一番美味しいところ、らしいんですけどね。甘ったるいだけなのに、結局マグを逆さにして流し込んだら、不思議と眠気がやってきて。片付けは明日って流しにマグを二つ置いたら、ミシェーラを部屋に連れてって、ベッドまで運んだら僕も自分の部屋に戻って、ベッドに飛び込んで。あとは朝までぐっすり、ですよ」

レオナルドが見つめるカップの底に、おそらく砂糖は残っていない。溶けきらないほどの量なんて入れていないし、冷たいミルクで温くはなっている筈だけれど一応スプーンでかき混ぜておいた。
けれどレオナルドは、ちょっと懐かしくなって、と笑ったあと、まるで思い出をなぞるかのように勢いよくカップを逆さにして流し込む素振りを見せる。

正解は、きっと。
おやきちんと混ぜたつもりだったんだけどな、と肩を竦めて大袈裟に嘆いてみせるか、僕も今度試してみようかな、なんて軽く受け止めてしまうことだったのだろう。
けれどスティーブンには、そのどちらも実行出来なかった。
何か言わなければと思うのに何も言葉にならず、結局、レオナルドに続いて勢いよく残りのコーヒーを飲み干しただけ。無理に言葉を捻り出そうとすれば、音になる前に崩れて別のものが溢れてしまいそうだった。

カップのふちから口を離し、ローテーブルに置こうとしたタイミングで伸びてきたレオナルドの手が、カップの取っ手を掴んで立ち上がる。片付けときますね、と告げるレオナルドの声からは先程までの柔らかさは取り払われ、いつものスティーブンに話しかけるものと同じ温度に戻っていた。
場を繋ぐ適当な言葉を依然として見つけられてはいなかったから、無言で差し出された終わりの合図にほっとしたものの、少しだけ残念でもあった。

「じゃあ、眠気も醒めたし、僕は帰るとするよ」

微かに浮かんだ名残惜しさを振り切るように、勢いよくソファから立ち上がって、今にも奥のキッチンに向かおうとするレオナルドの背に声をかける。
はい、と頷いたレオナルドは、そのまま奥へと数歩進んだ所で一度足を止め、振り向いてスティーブンの名前を呼ぶ。

「スティーブンさん」

忘れてたものを思い出したと言わんばかりの気軽さで。
けれど上司にかけるものにしては些か、優しすぎる色のついた、じんわりと包み込むような温度で。

「今日はおかげでよく眠れそうです」

おやすみなさい、スティーブンさん。

たった、それだけ。
言い終えるとあとは、もう用は済んだとばかりにさっさと奥へと引っ込んでしまったレオナルドに、スティーブンはようやっと、おやすみと鸚鵡返しに投げ返すことしか出来なかった。

無言のまま事務所を出て少し歩いた場所に停めてある車に乗り、エンジンをかけてアクセルを踏む。規定より少々スピードを出して真っ直ぐに自宅まで帰り、乱暴に玄関の扉を開けると早足でベッドルームに駆け込んで、着替えもせず思い切りベッドに飛び込んだ。

今日はおかげでよく眠れそうです。
おやすみなさい、スティーブンさん。

枕に顔を押し付けて目を瞑れば、さっきのレオナルドの声が何度も頭の中でリフレインする。どんな顔をしてそれを言ったかは見ていない筈なのに、ミシェーラの話をしていた時と同じ、優しげに頬を緩めて笑む姿まで一緒に浮かんできた。

おやすみなさい。
よく眠れそうです。
ミシェーラ。
砂糖たっぷりのカフェオレ。
スティーブンさん。

何度も何度も。
順番がバラバラになるまで繰り返して、噛み締めて、そうして。
脳裏に浮かんだレオナルドがスティーブンの名前しか呟かなくなった頃。
誰かに優しくしたくて、レオナルド相手にまるで、乞食に百ゼーロ札を投げつけるような心持ちでそれを行ったら、逆に。
柔らかな思い出を、大事にしまったものを取り出して見せられて。
スティーブンの行動にそれと同じものを感じたのだとわざわざ付け加えられて。
彼の大切なものと同じように、丁寧に扱われて。
いつの間にかさり気なく、気遣われていた。
与えたと錯覚した以上のものを、与えられてしまったのはスティーブンの方だったと、嫌というほどに思い知る。
その事実に、羞恥と後悔と行き場のない遣る瀬無さと、そして、微量の歓喜を抱えたまま。
重苦しい夢すら見ることもなく、眠りこけることとなった。まるで聞かされた思い出の中の幼いレオナルドのように、朝までぐっすりと。


それから。
スティーブンとレオナルドの距離が、少しだけ変化した。
他のメンバーがいる時は変わらない。今まで通り上司と部下の範疇を逸脱しないまま、ザップやツェッドとはしゃぐレオナルドを離れた場所から眺め、時に窘めて尻を叩く。
けれど、二人きりになった時に。
スティーブンは手ずからカフェオレ、それも最後に溶け残ってカップの底に残るくらいにたっぷりと砂糖を入れたもの、をレオナルドに入れて渡すようになり、それに応えるようにレオナルドは私的な話をぽつぽつと語るようになった。

初めのうちはおそらく、スティーブンの意地のようなものが入っていたと思う。
あの日、レオナルドに一方的にしてやられてしまった気がしてならなかったから。やり直しをして上書きをするために、わざわざタイミングを見計らって事務所に二人になれるように手配して、同じシチュエーションを作った。
レオナルドもそんなスティーブンのどこか硬い空気を察していたのだろう。一度目のそれは、あの日の再現とはならず、居心地の悪そうなレオナルドが無言でカフェオレを飲み干すだけで終わってしまった。
けれど何度か同じ状況を作り出せば、レオナルドも意図を理解したのか、ぽつぽつとミシェーラの話をするようになり、スティーブンもそれにうまく相槌を打って比較的穏やかに対応できるようになった。
ろくな言葉もかけられなかったあの日のやり直しとしては、それで十分。しかし順調に事が運んで以降も、スティーブンは頃合を見計らってはレオナルドに砂糖たっぷりのカフェオレを入れ続けた。

レオナルドが話すのは大抵、ミシェーラの事だ。
初めのうちはソニックやザップ、ツェッドの話もよくしていたけれど、おそらくはスティーブンの反応も見ていたのだろう。次第にミシェーラとレオナルドの昔話に焦点が絞られてゆき、一つ、また一つと、胸にしまった思い出を取り出して丁寧に並べてゆく。
無言の催促をしておいて何て言い草だと思われそうだが、話の内容自体は本当に些細で大したことのない日常の一コマだ。ミシェーラと大笑いした、二人で悪戯をして叱られた、暴走するミシェーラを必死で宥めた、出掛けた先で写真を撮った、エトセトラエトセトラ。
そんな、どこにでもありそうな幼い子供二人の話。

しかしやり直しを終えてからも何度も同じシチュエーションを作って、それの続きをねだってしまう己がいれば、嫌でも自覚せざるを得ない。
スティーブンはその、レオナルドの口から語られるミシェーラとレオナルドの何気ない昔話に耳を傾けるのが、好きだった。とても、とても。

ミシェーラの事を口にするレオナルドの表情はひどく優しげだ。時折ちらりと懺悔にも似た暗い悔恨が過ぎる事もあるけれど、瞬きの間に消えてしまうほどの一瞬のこと。
いつだって、はっきりとした言葉にはせずとも、彼女のことが大事で仕方ないのだと、語る声の色でありありと示してしまう。
人はかくも優しい音で誰かの名前を呼べるのだといっそ感心するほど、ミシェーラと紡ぐレオナルドの声は柔らかい。それを形作る口の動きまでひどく丁寧に見えて、気取られぬようにこっそりと注視してしまうほどだ。

あまりに優しげに響くものだから、スティーブン自身、それをこっそりと真似てみるようになった。
仕事を終えて自宅に帰り、スーツを脱いで肩の力を抜いたタイミングで。
ミシェーラ、と。
レオナルドを真似て呟いてみる。
もしかしてレオナルド自身の気質だけでなく、ミシェーラという音の並びそのものが、優しげに響きやすいのかもしれないと思いついたから。

しかし何度口にしてみても、どうにもうまくいかない。声色を変えて、アクセントを変えて試してみても、レオナルドのように彼女の名前を紡ぐ事が出来ない。
演技をする事には割合慣れている。
全くその気もないのに甘い声で女の名を呼び、頬を染める事なんて朝飯前だ。内心では歯牙にもかけていない男の名を尊敬を滲ませた色で呟き、おだてて金を引き出す事だってしょっちゅうある。
だから存外、簡単に真似できるかもしれないと思っていた。あれをマスター出来れば、仕事で活用する機会があるかもしれないとの下心すらあった。

なのにちっともうまくいかない。
どれほど優しげに呟いてみても、あの、二人きりの時間、耳に心地よく響いた音とは似ても似つかない。
レオナルドがそれを口にすれば、上等のビロードや真っ白なコットンでくるんだような風合いになるのに、スティーブンだとどう頑張ってもコットンキャンディーがせいぜいだ。それも、とびきり下品な色の。
感触だけは似ているようでも、全く違う。ただただ柔らかく包み込むだけでなく、いずれ溶けだしてべとついて絡みつくような余計な甘さが混じってしまう。
あまりに出来ないものだから、少々落ち込みもした。自分にはあんな風に誰かの名を呼ぶことは出来ないのかもしれないと、自嘲もした。スティーブンがどれほど工夫を凝らしても手に入れられないそれを、何のてらいもなくひょいと口にしてしまえるレオナルドに、暗い嫉妬に似たものを抱くことすらあった。

それでもすっかりと習慣になりつつある、砂糖たっぷりのカフェオレを入れて差し出す時間を、無くしてしまう事は出来なかった。
うまく真似出来ず落ちこむほどに、正しくレオナルドの口から発せられる音を聴きたくなる。
かくも柔らかく人の名を呼ぶことが出来る彼が、消えず存在していることを確認したくなる。
まるで中毒患者のように、ずぶずぶとハマっている自覚はあった。
もしかして、スティーブンのように幼い頃から牙狩りとして生きることを定められた人種とは全く別の、ある意味で結社の中では異質な少年時代を送った彼の持つ、表の世界ではありふれているであろうささやかな思い出が、珍しくて惹かれている部分もあるのかもしれない。
まだそちらの方が、こんなにもレオナルドの話に拘ってしまう理由に説明がつく。
誰に求められた訳でもないのに自分自身にそう言い聞かせて、スティーブンは仕事の合間を見繕っては二人で過ごす時間を作り続けた。