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(そういえば、あの人は元気にしてるかな)

ふと。
顔も素性も知らない彼の事を思い出したのは、HLにやって来て一年以上経ってから。
来たばかりの頃はちっとも得られぬ手がかりに苛立ち、彼の事にもよく思いを馳せていたけれど、ライブラとの接触を得てからは、目まぐるしく変化する毎日に過去を振り返る暇なんてなかった。
薄情かもしれないけれど、いつしか彼の事を思い出す頻度が減ってゆき、代わりにライブラのメンバーや新しい友人達の事を考える時間が増える。
嬉しいことがあればミシェーラの次に教えたいと思うのは彼ではなく、小さな相棒や優しい異界存在の友人になってゆき、心が弱った時に浮かぶのは彼ではなく、傍若無人な先輩や頼れるボスになってゆく。思い出すたびにちくちくと胸が痛む事も少なくなって、何度も読み返してすっかりと覚えてしまったメッセージを眠る前に夜毎諳んじて心を奮い立たせる事もなくなっていった。
またいつか話せたらいいなとは思うけれど、それ以上の強い感情は時間と共に薄れてゆく。
特別だった筈の彼の存在は、次第に思い出の中に溶けて馴染みつつあった。

けれど、そんな彼の事がなんの前触れもなく、ひょいと脳裏を過ぎったのは、もしかして。
所謂虫の知らせというやつだったのかもしれない。


それから、しばらく経ってのこと。
大規模なマフィアの抗争の鎮圧に駆り出され、ようやく一段落ついた日の事だった。
おそらく数日は寝ていないであろう隈のひどいスティーブンの様子を見るに見かね、自主的に手伝いを申し出て事後処理の書類の山を片付けていたレオナルドは、書類の間からひらりと床に落ちた紙に気づき、拾おうと腰を屈めて手を伸ばした所でぴしりと動きを止める。
凄まじい勢いで判子を押していたスティーブンも、なかなか顔を上げないレオナルドを妙に思ったのだろう。
どうしたんだい、とひょいと机の影を覗き込み、そして。
一枚の写真を凝視するレオナルドに気づいてスティーブンもまた、動きを止める。
レオナルドが手にしていたもの、それは。
見飽きるほどに何度も何度も訪れた、ミシェーラのお気に入りの場所を切り取った写真。
構図を変えて何枚も撮って、いくつも並べたデータとにらめっこして数日悩んでからようやく選んだ、一番最初に彼に見せたくて撮った景色。
レオナルドの記憶そのままの姿のそれは間違いなく、ネットを通じて知り合った彼に送った筈のものだった。


しばらく揃って硬直していたけれど、先に動いたのはスティーブンだった。

「コーヒー、入れてくれるかな」

そうレオナルドに告げると、手元にあった書類を揃えて脇にやると、大きなため息をついて項垂れる。
未だによく状況の掴めていなかったレオナルドは、言われた通りコーヒーをいれにゆく。二つのカップを手に戻れば、少し気まずげに眉を下げたスティーブンに、こっちに来てくれとソファへと誘導された。


「ライブラを立ち上げた当初は、スポンサーもまだろくにつかなくってね。牙刈りの一部からは反発もあって、今より使える手札は随分と少なかった」

しばらくは無言のまま、揃ってちびちびとコーヒーを飲んでいたけれど、並々と注いだ液体がちょうどカップの半分になった頃、スティーブンがゆっくりと口を開く。

「SNSには、呆れるほど多くの情報が流れてる。本命は足を出さなくっても、その周り。息子や娘、知り合いから予定や内情を探れる事もある。親しくなればあちらから、色んなことをペラペラ喋ってくれる事もあったな。今ならもっと有用な情報収集の手はあるし、人手も割けるようになったけど。あの頃は選んでなんかいられなかったから」

淡々と紡がれてゆく説明は、ぼんやりとその頃の状況を想像させてくれたものの、レオナルドの心を落ち着かせてはくれない。
ライブラに入っていろんな事件に関わり、スティーブンの事も近くで見てきたせいか、本題に入ってもないのにその先に続くものがなんとなく想像出来てしまって、胃の腑がひやりと冷たくなってゆく。

「あれも、その一つだった。スポンサー候補の気難しい金持ちの娘さんが写真好きでね。どうにか繋がりを持ちたくて、いくつかのアカウントを使って接触を図ってた」

そうして、スティーブンが予想通りの言葉を発した瞬間。
レオナルドの心臓がきゅうっと締め付けられる。
きっとそうだろうなと薄々気づいてはいても、改めて言葉にされるとショックが大きかった。

「きちんと写真を上げてるアカウントも使ってた。そちらを引き立たせるために、コメントだけのアカウントも作ってたな。初めから彼女に絞って接触してたらさすがに怪しすぎるから、カモフラージュに適当に目に付いたやつにコメントまでつけて」

カモフラージュ。
彼がスティーブンである事は話の流れからして間違いがない。あんなにも嬉しかった言葉の真意がそんな意図を含んでいたことを知らされ、つんと鼻の奥が痛くなった。
思い出になりかけていたとはいえ、彼との交流がレオナルドにとって大事なものであった事に変わりはなかったから。思い出す頻度は減ったとして、すっかりと忘れて記憶の底に埋めてしまう事が出来ないくらいには、大切なものであったから。

「そのうちの一人が呆れるくらいに素直でね。ちょっと褒めただけで、コロッと懐いてきてさ。たまたまそのやり取りが彼女の目に留まったおかげで、予想外の方向ではあったけど簡単に警戒がとけちまった。まあ、コメントをつけるのは彼女のフォロワーと繋がりのある相手を選んでいたから、完全なる偶然って訳でもないんだけどね」

さぞ都合がよかった事だろうなと、レオナルドは当時の己を自虐的に振り返る。今よりもまだ若かったレオナルドは、すっかりネット越しの相手に夢中だったし、スティーブンの言葉通り何の警戒心もなく簡単に懐いてしまっていた。

「彼女と繋がりが持てれば、あとはもう用なんてない。うまく煽てて情報を引き出して、実際会う約束を取り付けられれば、アカウントごと綺麗さっぱり消えるつもりだった」

説明されるにつれ、心が凍りついたようにしんしんと冷えてゆく。仕事の後始末としては、そうするのが妥当だと理解できるからなおのこと、気が重く沈んでゆく。
けれど一方で、どこか期待する心も残っていた。
だって本当にスティーブンの言う通りならとっくに繋がりは絶たれていた筈で、あの、写真を送るまでに至る時間が存在したことの説明がつかない。プリントアウトされた写真が今も尚、スティーブンの手元に残っていた事についてだって。

「なのにそいつ、利用されてるだけとも知らないで、僕がコメントをすればわかりやすく嬉しそうにして、メッセージを送れば尻尾を振ってるのが見えるみたいだった」

そんなにわかりやすかっただろうか、と俯いたレオナルドは、僅かに頬を染めた。
確かに彼の事はすぐさま特別になったけれど、それほど態度に出してるつもりはなくって、相手が随分と大人の男性らしいと気づいてからは、それに見合うような言葉を選んで送っていたつもりだったのに。
彼には全部、筒抜けだったらしい。

「あんまり都合よく進んだもんだから、一時は罠じゃないかって疑ってね。ただでさえ人手が足りないのに、わざわざ手間を割いて素性を調べたら、驚いたよ。罠どころか、話の中で浮かんだそのままの少年の姿があった。ちょっと心配になっちまうくらい、そいつの言葉には嘘
がなかった」

調べた、との言葉にぎくりとしたけれど、すぐさまスティーブンさんらしいなと納得もする。何のバックグラウンドも分からぬまま放っておくのは、今まで見てきたスティーブンらしくない。けして気持ちの良いことではないけれど、それくらいはするだろうと思ってしまった。
そして。
その辺りから、スティーブンの声色が変化した。
仕事の話をする時のような淡々とした物言いに、まるで柔らかなものを撫でるような優しげな色合いが滲み始める。

「無事に目的を遂げても、なぜだかそのアカウントを消してしまう事が出来なかった。忙しくてなかなかチェック出来ない日が続けば、まだそいつは僕に興味を向けてくれてるだろうかって不安になって、メッセージが来ているのを確認したらほっとした」

まるで当時のレオナルドの姿をなぞるようなスティーブンの言葉に、強ばっていた表情がちょっぴり緩む。
レオナルドだって同じだった。メッセージの返事がなかなか来ない日が続けば、もう終わりかもしれないとそわそわ落ち着かなくなって、返事がくればほっとしてまた、彼に話したいことを書き連ねた。

「そいつからのメッセージを読んでしばらくは、周りから機嫌がいいねなんて言われて。K・Kには気持ち悪いって嫌な顔をされたな。全然そんなつもりなかったのに、クラウスにまで良い事があったのかって聞かれたりして。さすがに自覚するよな。どうやら僕はそいつとのやり取りを、随分と楽しみにしてるらしいってこと」

冷たくなっていた心は既に、触れれば火傷してしまいそうなくらい熱くなっている。
そこも、レオナルドと同じだった。
レオナルドも彼からのメッセージが来る度、ミシェーラにからかわれていた。何も言わないうちから察したようにニヤリと笑われ、良かったわねお兄ちゃんとばしばし背中を叩かれた。
翌日の学校では事情を知らない友人達に何かいい事があったのかと尋ねられ、否定したのにいつの間にかレオナルドに彼女が出来たらしいなんて尾鰭のついた噂になっていた時はとても驚いてしまった。

「僕宛てに、僕のためだけに写真が送られてくれば、わざわざプリントアウトして後生大事に持ち歩いて。しょっちゅう取り出しては眺めたりなんてして。馬鹿みたいだろう?」

ははっと自虐的に笑ったスティーブンの言葉に、はいともいいえとも言えずレオナルドは、俯いてきゅっと唇を噛む。
馬鹿みたいだなんてとんでもなかった。彼に送る最初の一枚を決めるまでに、ミシェーラにわざわざ苦言を呈されるほどに試行錯誤をして、ようやく選んだそれを。
わざわざプリントアウトして手元に置いていてくれただなんて、唇を噛んで堪えなければ叫び出してしまいそうなくらい、嬉しくってたまらない。

「きっと、救われてたんだ。そいつの言葉も送られてくる写真も、あんまりにも平和で穏やかで、優しかったから。牙刈りなんて立場上、人の後ろ暗い部分を目にすることが多かったし、そういうものばかり見てれば自ずとそれが人の本質だと思うようになっちまってた。クラウスみたいな存在は稀有で、善良な人間なんて少数派だと思ってた」

ちらりと視線だけを上げて見れば、柔らかく目を細めたスティーブンがいて、レオナルドは少し後ろめたさを覚える。
それはきっと、過大評価だ。
あの頃のレオナルドは、特に目立つ所のないどこにでもいるただのガキで、もっと優しいやつなんて周りには沢山いた。
もしもレオナルドでなく、他の誰かが彼の目に留まっていたら、スティーブンはその優しげな目をそいつに向けていたかもしれない。考えると、ちくりと小さく胸が痛む。

「でもそいつも、そいつの周りも嫌になるくらい、いいやつばっかりで。僕らの見てる世界の外には、いくらでもそんなものが転がってるんだって信じさせてくれた」

けれど実際、彼と繋がりを持ったのはレオナルドだったから。もしもの話で落ち込むのは、すぐにやめる。
HLに来てから経験したことに比べれば、外でのレオナルドの日常なんてあまりに些細な出来事で彩られていたけれど、それが彼の心を慰める一端となっていたのならば。
本当に良かったと、心底思う。

「本当に、馬鹿みたいだったよ。そいつが送ってくれた、妹が好きな場所だっていう写真を眺めてるうち、いつかここに行けたらって思うようになって。その時はそいつにも会えればいいなんて考えまでして」

続いたスティーブンの話に、思わずレオナルドは顔を上げた。
相変わらずスティーブンの表情は柔らかくて、嘘を言っているようには見えない。

「さすがにティーンのうちはまずいだろうから、何年か経ってから。その頃には多少こっちも落ち着いてるだろうからまとまった休みをとって、その間の仕事のフォローをどうするかだとか、そのためにはもう少し戦える人材を増やさなきゃなだとか。そんな具体的な事まで考えてた。僕の方に何かが起きない限り、そいつとのやり取りはこの先何年も続くだろうって、疑いもせずに信じ込んでた」

ついさっき。もしもの話で落ち込む事をやめたくせして、目の前の彼から語られるいつか存在したかもしれない未来の話は、レオナルドの胸を高鳴らせた。
もしもそれが本当になっていたとしたら、どれほど喜んだことだろう。
でも。
あくまでそれは、ifでしか語ることの出来ない話。
そこで一旦言葉を区切ったスティーブンは、すっと表情を消してその目に硬い色を宿す。

「なのにそいつは、あっさり僕との繋がりを断ち切った。就職しますってたったそれっぽっちのメッセージ。慌てて確認したらアカウントは既に削除されてて、なんにも残ってなかった」

ひゅっと息を呑み込んで、硬直したレオナルドは咄嗟に何か言い訳をしようとした。
しかし責めるような強い光の中に、どこか寂しげな弱々しさを宿した視線にひたと捉えられれば、何も言えなくなってしまう。

「裏切られた気分だったよ。そいつはそんな風に、人との繋がりを断つようなやつだなんて思いもしてなかったから。自分にも腹が立った。ガキなんてちょっとした事で興味の先ががコロコロ変わるってのに、馬鹿みたいに続くことを信じてたから」

目を微かに伏せてシニカルに口の端を歪めて笑ったスティーブンに、罪悪感がじくじくと刺激された。
おそらくこの瞬間まで、レオナルドは本当の意味で自分のやった事を理解していなかったのだと気づいてしまったから。
彼との繋がりを断ち切るのは辛くて、アカウントを消した時は泣いてしまいそうだったけれど、それは。自身の辛さにばかり目を向けていて、彼がどう思うかなんて考えもしていなかった。
レオナルドと違って随分と大人の人だったから、すぐに忘れてしまうものだと思っていた。
勝手に相手の事を推し量って分かったつもりになって、相手にとっては大した事ではないだろうなんて思い込んで、そして。
己の身勝手で随分と手酷く彼の事を傷つけてしまったらしいと、スティーブンの口から当時の事を語られてようやく、はっきりと自覚する。

「でも、安心もしてた。最大限注意は払ってたけど、いつかもし僕との繋がりが露見すれば、全く関係のない場所にいるそいつに害が及ぶかもしれない。本来なら僕みたいなやつとそいつの世界が交わる事はなかったんだ。だから。これで良かったんだって自分に言い聞かせて、そいつの言葉の真偽を確かめる事もしなかった」

それでも、スティーブンはただレオナルドの不実な態度を責めるばかりではなかったから。
苦々しさを堪えるような口ぶりで、それでよかったなんてこちらの身を案じさえしてくれていたから。
いよいよ堪らなくなって、じわりと目の端に涙が浮かんだ。自分には泣く資格なんてないと、ぐっと喉に力を入れて堪えたけれど、ふと吐き出した息はじめじめと湿っていて、ひどく熱かった。
そんなレオナルドに気づいているかいないのか。
突然芝居がかった様子で両手を広げたスティーブンが、明るくおどけたようにくるんと目を見開いて、朗らかに声を張り上げた。

「そうしたらさ。レオナルド・ウォッチ、君が現れたんだ」

しかしそれも、一瞬のこと。
すぐに広げた手はだらりと垂れ下がり、大きなため息をついたスティーブンは、疲れたように力なく笑ってみせる。

「僕らとは無関係の安全な場所で呑気に笑ってる筈の君が、とびきり厄介で希少な神々の義眼なんてものを押し付けられて、のこのことこちら側にやってきた。君の名を聞かされた時、僕がどれほど驚いたことか」

まったく、参っちまう、と。
小さな声で呟いたスティーブンの言葉が、やけに大きく二人の間に響いた。
口を開けばあっという間に、堪えたものが決壊して溢れ出してしまいそうで、流れた沈黙を振り払う手段をレオナルドは持ち合わせていなかった。
やがて、しばしの静寂のあと。
ふうっと長く吐いた息に乗せて、スティーブンがぽつぽつと先を続ける。

「後悔したよ。だってあんなメッセージ一つで消えるなんて、そいつらしくなかったのに、何でもっと気にして調べなかったんだろうって。僕の感じた違和感は間違いじゃなかったのに。調べていれば、君の起こった異変にもっと早く気づいて、何か出来たかもしれない」

そうは言っても、調べた結果神々の義眼に行き当たれば、きっと最終的には君をこちら側に引き入れて利用する方法を選んだだろうけど、と。
小さく笑ってやけっぱちに吐き捨てたスティーブンの言葉は、レオナルドを傷つけはしない。それがわざと悪人ぶってみせるための嘘でなく、スティーブンの本心だとは分かっていたけれど、それでも。
だからと言って、他の言葉が嘘になる訳ではない。

「少年を見てると、そいつがあんな風に消えた理由もなんとなく分かった。文字の向こうのそいつより、幾分頑なで強ばった君が、いつだって何よりも妹を大事にしてるってことを知ってたから」

何もかも見透かしたような言葉に、びくりと身体が震える。ガミモヅとの邂逅を経て多少、己の足元がふらつく事は少なくなったとはいえ、そこはまだ完全に割り切れてはいない部分だったから。
けれども、痛いばかりじゃない。
きちんと内側を汲み取ってくれている事に、喜ぶ自分がいることにも気づいていた。まるで一番最初、屈託を抱えたレオナルドをあっさりとすくい上げてくれた、彼からのコメントを目にした時みたいに。

「目の前に現れた君は、素直で嘘がつけなくって可愛らしく僕に尻尾を振ってたそいつより、意地っ張りで頑固で妙にふてぶてしくって、扱い易いようで扱い辛くって。可愛げなんてちっともない。でもやっぱり、どこまでもそいつのまんまだった。間抜けで優しいお人好しの、レオナルド・ウォッチ」

責めている体をとっていたくせ、あまりに好意的な評価でレオナルドを飾り立てるから、そんな事は無いとぶんぶんと首を振る。
ちっとも優しくない薄情者のレオナルド・ウォッチは、彼の事を思い出す回数も減っていた。彼が未だ写真を持っているなんて思わず、それどころか傷ついている可能性にすら至ることなく、自分のことでいっぱいいっぱいだった。
そんな風に言ってもらえる資格なんて、持ち合わせてはいやしないのに。
無言で首を横に振るレオナルドを見つめるスティーブンの目は、どこまでも優しげに緩められている。

「本当はもっと早く言ってしまうつもりだったんだ。でもそれについては君も悪いんだぜ、少年?」

くすりと、小さく笑い声を漏らしてから。
ちょっぴり、拗ねたような色を声に乗せて。
ひょいと肩をすくめたスティーブンは目を柔らかく細めたまま、大袈裟に唇をへの字に曲げてみせる。

「クラウスやK・Kだけじゃなく、ザップにまであっさり懐いたくせに、僕には全然懐かない。そんな状態で、言える訳がないだろ? ……昔懐いていた相手の正体が大して親しくもない上司だってバラされて、ガッカリされたら。さすがに僕だって、落ち込みもするさ」

冗談のように告げたくせに、言葉尻はどこか寂しげに響く。
本当に、馬鹿みたいだろう、と最後に付け加えたその声があまりにも頼りなげで、つんと胸を突いて震わせたから。
とうとう、レオナルドは重い口を開いた。

「アランさん」

アルファベットの一文字、Aというハンドルの由来が、アランという名前だとやり取りの最中に知ってから、個人的なメッセージの中ではいつも呼んでいた彼の名前。
舌に乗せたその音は情けないくらいに震えていて、ちっとも格好がつかないのに、口にした瞬間、目の前のスティーブンがひどく嬉しそうに笑う。
まるで幼い子供のような無邪気な笑顔に、ぐっと喉元を熱い塊がせり上がった。

「ごめんなさい、僕は、僕……っ」

ぽろりぽろり、目の端から涙が零れてゆく。

ろくな説明もせずに消えてごめんなさい。
あなたを傷つけてしまってごめんなさい。
沢山心配をかけてごめんなさい。
自分のことしか考えていなくてごめんなさい。

謝りたいことはいっぱいあって、話したいことも山ほどあった。写真の話も聞きたかったし、己の薄情さも全て打ち明けてしまいたかった。
けれど開いた口から出てゆくのは嗚咽ばかりで、辛うじて言葉に出来たのは謝罪の言葉だけ。
ごめんなさい、アランさん、ごめんなさい。
しゃくりあげながら同じ言葉を何度も繰り返すレオナルドに、スティーブンはしばらくの間何も言わず、黙って耳を傾けていた。
そうして、ほんの少しレオナルドの涙の勢いが衰えたタイミングで。

「レオン」

電子の海の中に消えてしまった、レオナルドの名前を呼ぶ。さして捻りもないそのハンドルは、昔はゲームやネットで好んで使っていたけれど、件のSNSを辞めて以来一度も使ったことがない。
少年、とレオナルドを呼ぶ時のものよりも、角がなくて柔らかな響きが、落ち着きかけた涙腺をまた刺激する。

再び滲み始めた視界の向こう。
どことなく気まずそうにそっぽを向いてぽりぽりと指で頬を引っ掻いたスティーブンが、反対側の指先で始まりの写真をつまみ、ひらひらと振ってみせた。

「また、僕に。ああ、今すぐじゃなくていい。いつかで、構わないから。僕のために、また。写真を、贈ってくれないかな」

とてもらしくないスティーブンの様子に、レオナルドは目尻を濡らしたままへらりと笑った。
だってそれは、アランと名乗った彼が時折メッセージの隙間に滲ませた、照れくさそうな姿とぴったり重なった。もしかして今の彼はこんな顔をしているのかも、と画面の向こうのその人の事を想像した時に浮かんでいたものと、きっかり同じ表情をしていたから。

「アランさん」

ミシェーラの、と言いかけてレオナルドは、一旦口を閉じる。多分続ければそれは、自己弁護のためにミシェーラへと原因を押し付ける言葉になってしまうような気がした。

「すぐには、無理かもしれませんけど。あなたに見せたい景色を見つけたら、きっと」

せめてそのままの気持ちを、スティーブンに伝える。
彼に写真を送ったのは、彼に見せたいと思ってシャッターを切る事が増えたから。
思わぬ邂逅に舞い上がって、動揺して自省して、忙しなく動く心臓はまるであの頃に戻ったみたいだったけれど、以前と何もかもが変わらない訳では無い。
彼のことを大事な思い出に、過去のものにしかけていたレオナルド・ウォッチがいた事実も本当で、日常の中、彼のためにシャッターを切りたいと思う事すらなくなっていた。
一時的に高揚した気持ちで今すぐにでもと安請け合いするのは簡単だったけれど、それはしたくなかった。
ミシェーラとは関係なく、レオナルド自身が本当に彼に見せたい写真をすぐには撮れる気がしなかったから。おざなりで済ませた適当なものを、彼に見せたくはなかったから。
それに。彼がスティーブンだと知ってしまった以上、レオナルドの中に作り上げた彼のイメージをそっくりと重ねてしまうのも、違う気がしたから。
また言葉を交わして二人の間に積み上げてゆき、徐々に距離を詰めていって、ごくごく自然にカメラに手が伸びればその時は、きっと。

ぽつりぽつり、そんな正直な気持ちを告げると、虚をつかれたように目を丸くしたスティーブンがやがて、ふっと柔らかく目尻を下げて困ったように笑い、やっぱり君は君だなあと呟いた。

「じゃあ、まずはメールから始めてみる?」

茶目っ気を含ませたおどけた声で、けれどどこかに不安を滲ませながら、新しい関係を構築するきっかけを差し出してくる。
そこに一番最初、矢継ぎ早に弁解のメッセージを送ってきた時の彼の姿を見つけたレオナルドは、乱暴にがしがしと潤んだ目尻を拭ってから、改めて。

どうぞよろしくと笑って、真っ直ぐに右手を差し出した。