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面倒なことになった。
事務所に行けば、レオナルドがザップに呼び出されて迎えに行っただなんて、覚えのない事を聞かされて、慌ててスティーブンにGPSを確認して貰えば、馴染みのある愛人の家にマーカーが表示されている。
その時点で、何か面倒なことが起こった事は分かっていたけれど、急いで駆けつければさらに事態はややこしい。
何を言って丸め込まれたのか、簡単に媚薬なんて飲まされて朦朧とするレオナルドが居て、しかも愛人から話を聞けば呼び出しには録音したザップの声まで利用されていた。
いくら馴染みの相手だからといって、そこまで気を抜いたレオナルドの迂闊さに腹も立ったけれど、ザップの失態である事も重々理解している。
まさかそんな行動に出るタイプだとは思ってなかったからこそ、レオナルドを呼び出すのにも躊躇のない相手であったし、いつの間にかレオナルドを呼び出す時の声を録音されていたなんて全く気付いていなかった。それについては、明らかにザップの手落ちだ。
必要最低限の報告だけして後はレオナルドの介抱に専念し、その後何度か入っていた連絡を無視していた事もあって、事務所に帰ればスティーブンにはこってり絞られるだろうし、チェインやツェッドにはちくちく嫌味を言われるだろう。考えるだけで、鬱陶しくてたまらない。

面倒なのはそれだけではない。
レオナルドに媚薬をもった愛人は、けろりとした顔で童貞を食いたかったなんて言っていたけれど、丸ごと信じてやるには少々やり過ぎだった。
裏に何かないか調べなければならないだろうし、仮に義眼やライブラの情報目当てであれば、それなりの処分をしなければいけない。
ザップとて一応、物事の優先順位は分かっているつもりで、ライブラの情報と愛人を天秤にかければ基本的には前者に傾いてしまうけれど、その結果万が一、情を交わした女が消されるなんて事になれば、やはり気分は良くない。こちら側の手落ちであるから、なおさらのこと。
最悪の場合でも、出来ることならば記憶を消して前歴も消して、ヘルサレムズ・ロットの外へ出す程度で留められればいいと思っている。本心から。

全く本当に、面倒くさくて気が重くて、やってられない。

なのに。
それを差し引いても、ザップはいたく上機嫌だった。
どれほど事の顛末が後味の悪い方向に転がる事を想像しようと、胸の底から湧き上がる明るい色を打ち消すのが難しいくらいには。

愛人の家から一番近かった、ライブラで共有されるセーフハウスの一つ。
手入れのされた真っ新なシーツの上で、眠るレオナルドの顔を眺める。
さっきまで媚薬に翻弄され、顔をぐちゃぐちゃにして吐いていたとは思えないほど、間抜けな寝顔だ。試しに頬を抓ってみても、眉間に皺を寄せるだけで、目覚める気配はさっぱりと見えない。
馬鹿みたいに気の抜けた、どこまでも平和すぎる顔で眠っている。

そう、だからこそ。ザップは思い違いをしていたのだ。
もうこの街に来て随分と経つのに、弱っちいままで、簡単に奪われて殴られて傷つくくせに、すぐにへらへらと気の抜けた、この街にはあまりに似つかわしくないとぼけた顔で笑ってみせるから。
いつか、レオナルドの隣には、同じ匂いのする女が立つのだと思っていた。
妙にお人好しで、芯が強くて、ぶれなくて、この街には似合わない、けれども霧の向こうにはいくらでも転がってそうな。ごくごく普通の、ザップの愛人たちとは真逆にいるような。
この街では霧に隠れて拝めない、太陽の光がよく似合う女が、当たり前のように寄り添うのだと思いこんでいた。
そうして二人、向こう側ではありふれている、ごくごく普通の生活を、何の気負いもなく当然の顔をして、作り上げてゆくのだと思っていた。

けれどその眼がある以上、それは限りなく不可能に近いのだと。
愛人の家に駆けつけた時。
媚薬に浮かされて薄く開いた目の隙間から覗く、青い燐光を見た瞬間、ザップはようやく理解する。

レオナルド・ウォッチが、その辺の女を抱くことは、その眼がある限り、けして叶わない。

だってそれは、ライブラにおける最重要機密に等しい。当然、レオナルドにとっても。誰も彼もに簡単に明かして良いものではないのだ。
レオナルドが飲まされた媚薬は、さほど強いものではなかった。軽い催眠効果と、血の巡りをよくする事によって、プラなんとか効果とやらで気持ちいいと思い込ませる類のもの。カラクリさえ知っていれば、ほとんど影響なんてないと言っていい。少なくともザップには、まるで効かない。
けれどそんな、弱い媚薬であっさり意識を飛ばしかけて、簡単にその眼を曝け出してしまうようでは困る。快感で訳が分からなくなって、閉じた糸目があっさりと開くようでは駄目なのだ。
せめて快感をコントロールして主導権を握り、余裕を持ってコトに臨めるようになるまでは、迂闊な相手と寝る事は叶わない。終わったあとに、寝入ってしまうのもいけない。たとえ最中に隠し通せても、幻覚を見せてやり過ごすことが出来ても、寝ている間に軽く瞼を押し上げられれば、全てが台無しだ。
お人好しの童貞が、初めて寝た相手にそこまで気を張り続けて、ある意味では騙すような真似を出来るだろうか。ただでさえ、自分のためにその眼の力を使うことを躊躇うレオナルドが、そんな器用な事を。
恐らくは、不可能に違いない。

だから最低でも、レオナルドの相手は、その眼の存在を知っているやつでなければならない。更にはけっしてその情報をよそに持ち込まず、篭絡して利用してやろうなんて考えない相手で、なおかつ強引な手法で情報を抜かれたり人質として利用されないようある程度の自衛手段も持ち合わせている、と条件を付け加えてゆけば、レオナルドが寝る事の出来る相手はますます限られてしまう。

そりゃあ多少弱くったって、それこそレオナルドとよく似た陽の光の似合う、こちら側とはまるで関係のない女だったとして、レオナルドが望めば引き込む事も不可能ではない。望んで助力を乞えば、クラウス辺りが率先して手を貸して心を砕いてやることだろう。
けれどただでさえ、ミシェーラに多大な負い目を感じているレオナルドが、新たな誰かにそれを背負わせる事を選択するだろうか。
答えは、否。
レオナルドがレオナルドである限り、その可能性は著しく低い。

じゃあ、もう、そんなの。
レオナルドの相手を出来るやつなんざ、それこそ、ライブラの中心に近いメンバーしか、存在しないじゃないか。
なら別に、それがザップだとしても、構わないじゃないか。

いつかレオナルドの隣には、陽の光が似合う女が立つのだと思っていた。
霧の向こう、いつかのガラス越しに見えた、何の変哲もないどこにでもありそうな、けれどザップとはついぞ交わる事の無い、テレビや映画の中のフィクションみたいな。どこまでも平和で穏やかな家庭を作るのだと思っていた。
馬鹿みたいなお人好しだと思っているけれど、ザップはそんなレオナルドのあり方を、嫌ってはいない。
いつまで経ってもこの街に引き摺られて変質することなく、けれどしっかり順応はして馴染んで溶け込んでいる図太いところも、時折向こう側の退屈で平凡な生活の名残を覗かせるような、暴力とは無縁の世界で生きてきた人間の持つ甘っちょろさを見せるところも、ムカつくことはあってもけして、嫌いではなかった。そんなレオナルドを通して、向こう側の生活の匂いを嗅ぎとれば、多少居心地の悪さは覚えたけれど、頑なに撥ね付けて拒絶する気にはならなかった。多分、どちらかといえば、気に入っていた。
だからこそ、いつかそんな時が来たら、多少ちょっかいはかけても、邪魔はしないでやろうなんて、ザップにしては殊勝な事を考えていた。
だって気の抜けた顔で笑うレオナルドには、こちら側よりあちら側がよく似合うから。

けれど、あの、薄く開いた隙間から、漏れ出す青い光を見た瞬間。
まず一番にザップの脳裏に過ぎったのは、これがある限り、レオナルドを盗られる事は無いってこと。
あちら側にレオナルドを奪われることはないと、考えてしまった己を自覚してしまえばもう、そんならしくない事を言ってなんていられない。

だってザップは、盗られたくなかったのだ。
盗られないと分かって、ほっとしてしまったのだ。
盗られる、という言葉に違和感を覚えないくらいには、いつの間にかそれを自分のものとして勘定していたのだ。

あの瞬間に。
レオナルド・ウォッチは、ザップ・レンフロのものだと、叫ぶ声を己の内側に聞いてしまった。
一度聞こえてしまえばもう、聞かなかった事には出来なかった。

気づかなければ、逃がしてやれた。
けれど気づいてしまえば、誰にもくれてはやれない。
何が嬉しくて、自分のものを他人に差し出してやらなければならないのだろう。
そんなのは、ザップの性分ではない。

眠るレオナルドの、平和な寝顔を見つめる。
その瞼の下に収められた、神々の義眼が元のありふれた眼に戻るのは、明日かもしれないし、数十年先かもしれない。

「んな長いこと、前も後ろもバージンだなんて可哀想だよなぁ、レオ」

眠る前、ありがとうございます、と声を出さずに唇の形で告げたレオナルドを思い出して、ザップはくつりと笑った。朦朧としていてさえ、レオナルドは甘っちょろい。
だって、あれは。
別に、レオナルドのためにした事なんかでは、全然なくって。

「お前は、俺のモンだろ。なあ、レオ」

誰だって、自分のものを勝手に弄られたらムカつくだろう。綺麗さっぱり洗い流して、痕跡を全て消してしまいたくなるだろう。腹の底まで引っくり返して、全て掻き出してしまいたくもなるだろう。
据え膳を食うのは簡単だったけれど、それが初めての記憶に刻まれるのは面白くない。ザップには初めてに何のこだわりもないけれど、レオナルドはそれなりに思うところがありそうだ。使われた媚薬に依存性が無いことは知っていたけれど、水増しされた人工的な快感がクセになっても困る。
それに、ただでさえレオナルドの視界に映るものはややこしいのに。その上に媚薬で浮かされて、おかしな幻覚まで追加されたらたまったもんじゃない。
だから全て、吐き出させた。
大丈夫だと何度も言い聞かせて、軽い催眠状態にあったレオナルドにの無意識に働きかけるように。

ヘルサレムズ・ロットに起こるありふれた奇跡を何重にも束ねた、とっておきの奇跡中の奇跡が明日にでも起こらない限り、時間はたっぷりと存在しているのだ。ならば別に、急ぐ必要はない。

(番頭にも、釘さしといてもらうか)

念のため、コトの最中に腑抜けたレオナルドの瞼が開く可能性を告げて、改めてその辺の女と簡単に寝ないよう、スティーブンから告げてもらう算段をする。ザップが説明するよりよほど、嫌らしい正論をもって説き伏せてくれるだろう。
説教を聞かされるのは憂鬱だけれど、忘れないうちに頼んでおかなければならない。


そして、しばらくレオナルドの寝顔を眺めていたザップは、自身の人差し指と中指に残った歯型に、軽く唇を寄せてから。
脇に置いたスマートフォンを取って、鼻歌交じり、リズミカルに画面をタップしていって。

頭のてっぺんから、爪先まで。
何一つ、欠けることなく変質させることのないままに。
腹の底にレオナルドを丸ごと、収めてしまう準備を始めることにした。