頭のてっぺんから、爪先まで


ぐぽり、ごぽり。
腹の中からせりあがってくる塊に、喉が焼けるように痛んだ。
ついさっき胃の中に収めたばかりの、砂糖たっぷりの生クリームとスポンジの味に胃液が混じり、甘酸っぱさにも似た、けれど生理的に不快感を催すにおいが、口いっぱいに広がってゆく。
気持ち悪い。痛い。辛い。熱い。熱い。熱い。
どろどろに溶けた元固形物を、目の前にある陶器で出来た便器の中に向けて吐き出せばほんの少しだけ、体をぐるぐると巡る熱が引いた気がした。それでもまだ、熱くて熱くてたまらない。

どうやら、媚薬を盛られたらしい。
何度かかかってきた事のある番号から聞こえた、迎えに来いとのザップの声に呼び出されて、渋々向かった愛人の家。
ザップ、今シャワー浴びてるから、これでも食べて待ってて、と小さなケーキと紅茶を振る舞ってくれたのは、すっかり顔なじみになったザップの愛人の一人。
愛人にもいろいろなタイプのひとが居て、レオナルドにさえ嫉妬を隠さない女性も中にはいる。そういう女性の元にいるときは、ザップはレオナルドを足としては使わない。
以前、そういった相手の所でレオナルドを巻き込んだ、盛大な修羅場が発生した事があったのだ。結果、ザップとレオナルドは揃って腹を刺される羽目になり、病室に並んで放り込まれてしまった。入院している間、ザップはひたすらお前のせいでややこしい事になった、だなんてぶつぶつ文句を言っていたけれど、一応欠片ほどの罪悪感らしきものは抱いたらしい。
それ以来呼び出されるのは専ら、レオナルドにもある程度好意的な相手の所にだけに限られるようになった。

だから全く疑うことなく、出されたものを口にしてしまった。安全な場所だと、すっかり思い込んでいた。
特に変な味はしなかった、と思う。小さめのケーキは、五口もあれば綺麗に胃の中に消えてしまい、紅茶で口の中に残る甘さを流し込んでも、大した異変は感じなかった。
ただ、やたらとレオナルドをじいっと見つめて、楽しげに笑う愛人の姿に、なんとなく違和感はあった。悪感情を向けられている雰囲気では無かったけれど、何かを面白がるような、期待しているような。妙な空気が、そこはかとなく漂っていた。
熱心に注がれる視線に落ち着かなくなって、カップに残った紅茶を一気に飲み干してしまう。それでも居心地の悪さは消えてはくれなかったから、縋るように微かに聞こえるシャワーの音の発生源へとちらりと意識を向けて、また目の前の女の人を見て、へらりと愛想笑いを浮かべてやり過ごす。
そんな視線の往復を繰り返した、何度目かのタイミングで。
真っ赤なルージュで染まった唇を、艶やかに釣り上げた目の前の女性が、歌うように囁いたのだ。

――それね、気持ちよくなるお薬が入ってたの。ねえ、可愛い子犬ちゃん。気分はどーお?

彼女の言葉に一瞬、動きを止めたレオナルドは、思い切り笑い飛ばそうとした。やだなあ、冗談きついですよ、と。ことさら軽薄に笑って、流してしまおうとした。
けれど、口を開いた瞬間。
まるで彼女の言葉が真実であるかのように、ぞわりと腹の中がむず痒くなって、内側から炙られたように熱くなる。そこから全身に向けて小さな虫が這い出てゆくような不快感と、背筋がじんと痺れたような奇妙な感触。開きかけたレオナルドの口から飛び出したのは、笑い声ではなく、湿り気を帯びた熱っぽい息。
なんで、と辛うじて呟いた言葉に返ってきたのは、悪意なんてまるで無さそうな、いっそ無邪気ともいえるようなあっけらとした声だった。

――だって子犬ちゃん、カワイイんだもの。味見したくなっちゃった。

常にザップに向けられていた筈の、色のある視線が、己に向いているのだと気付いた途端に、かあっと頬が熱くなる。同時に、ぞわぞわと皮膚の下を這い回っていた気持ちの悪い感覚が、急速に下半身に集まってゆき股間を刺激する。
気持ちよくなんてない筈なのに、勝手に勃ち始める己のものに動揺したレオナルドは、一気に体温が上がったのを自覚した。
自分でする時に感じるのとは、全く違う種類の熱。けれどそれが齎すのは、いつも以上に熱い疼きで、レオナルドはいよいよ混乱してしまう。
だって、そんなの、おかしい。
何にもしてないのに、勝手に体が熱くなって、あちこちがじんじんと痺れてきて、気持ち悪いのに気持ちよくて、そんなの。全然わからなくて、変で、おかしい。
確かにそういうことに、興味が無かったといえば嘘になる。目の前に座る女の人は、ザップの隣にいても全く見劣りしないほどに堂々とした美人で、動作の一つ一つがやけに色っぽくて、以前迎えに来た時に下着姿を見てしまった時には、どぎまぎとして顔を上げることが出来なかった。もしも普通に誘われていれば、からかわれていると分かっていても少しは期待してしまったかもしれない。
だけど、これは、違う。
こんな、無理にその気にさせられてしまうような。強引に、身体の芯に火をつけられてしまうような、こんなもの。
なのにいくら違う違うと否定しようとしても、吐き出す息は荒く短くなっていって、心臓はどくどくと煩く騒ぎ始めていた。深呼吸で落ち着かせようとしてもちっとも上手くはいってくれない。

――大丈夫よ、子犬ちゃん。抵抗しないで、気持ちよくなっちゃいなさいよ。大丈夫、大丈夫。

合間に耳に届く、柔らかな女の人の声。
いっそ優しげな色すら纏っているのに、大丈夫、と囁く声が聞こえるたび、ひやりとした気味の悪さが心臓を撫でてゆく。なのに、ぞくぞくと背中を震わす疼きは大きくなってゆく一方だった。
まるで霞でもかかったように思考がぼやけていって、心と身体が切り離されてゆく。いやだいやだと頭の一部は依然として抵抗をしているのに、身体は熱を快感へと作り変えていってしまう。
そんなこと、ちっとも望んでなんていやしないのに。

最早頼れるのは、シャワーの向こうにいる男だけだった。
散々人のことをいいように扱き使って振り回すし、悪びれもなく金を毟り取ってゆくけれど、いざって時にはギリギリの所でひょいと拾い上げてくれる人だから。
けれど。
そんなレオナルドが向けた意識の先に気付いたように、目の前の女性がぺろりと舌を出して肩を竦めてみせた。

――ごめんね、子犬ちゃん。ザップ、居ないの。

ザップが、いない。
じゃああの、電話の声は、だとか。シャワーの音は、とか。聞きたいことは沢山あった。けれど何一つ言葉にはなってくれない。
どうして自分がこうなっているのかわからなくて、何をしにきたのかもよく分からなくなってゆく。ルージュで彩られた唇が、ほかにも何か告げていたけれど、どろどろと崩れてゆく頭ではそれを理解することも難しくなっていった。
ただ一つだけ、分かったのは。
ザップは、いない。この気味の悪い熱から、引っ張り上げてくれる人が、いない。
それを理解した瞬間、最後の最後で踏ん張っていた心が、ずぶりと何かに浸って沈んでゆく。身体のどこにも力が入らなくて、ゆるゆると解けていってしまう。
大丈夫、と囁く声に身をゆだねて、全て任せてしまえばそれで終わると考えた瞬間。
なぜだか目の前の女の人が、はっと息を呑んで驚いた顔になるのが見えて。
その、美しく磨きあげられた爪が、何かを確かめるようにレオナルドの瞳に向けて伸ばされたタイミングで。

しゅるり、どこからか伸びてきた赤い赤い糸が。
まるで守るように柔らかく、ぐるりと頭に巻き付いて、視界を塞いでくれる。

「レーオ」

そこには居ない、と告げられたばかりの男の声を背に受けてレオナルドは、震える唇をこじ開けて、喉を揺らした。
ザップさん、と言ったつもりの音は、情けない呻き声となってぺたんと床に落ちてしまったけれど、きっと、通じた筈だ。

「大丈夫だからな、レオ」

何度も、何度も、甘く溶けた高い声で注がれた時には、ちっとも安心なんて出来なくて、ただただ気味の悪さを覚えるばかりだったその言葉が。
毎日のように耳にしている男の低い声で形作られるだけで、簡単に気持ちを落ち着けてしまう。
未だ身体は熱いままで、溶けかけた思考も戻ってくれそうにない。女の人が何か言っている言葉は既に意味を為さず、それに答えるザップの声もただの音としてしか認識出来ない。

けれど、もう、大丈夫。
だって、ザップさんが来てくれたから。
これで何も心配することはないと、レオナルドは安心して煮立つ熱に思考の全てを明け渡すことにした。


半ば飛びかけていた意識が強制的に引き戻されたのは、口の中に差し込まれた何か硬くてしょっぱい、異物にぐっと喉の奥を押されて。
気付けば冷たいタイルの上に跪く格好になっていて、目の前には真っ白な便器。
すぐには自分の状況が把握出来なかったけれど、戸惑う間もなくひくつく喉が胃の内容物を絞り出そうとする動きに、成すすべもなく従わされる。
舌を伝う気持ちの悪い甘さが不愉快で、すぐに全てを吐き出してしまっても、ほっと一息つく間もなかった。すぐさま身体をぐるぐると巡る熱の存在を思い出して、意識してしまえば火がついたように、どこもかしこも熱くてたまらなくなる。布越しに触れたタイルの冷たさが余計に、火照った身体の温度を意識させて、未だ下半身が硬く滾っていることを自覚し、かあっと燃えるように頬の熱が上がった。
けれど口の中に入った硬い異物は、そんなレオナルドの状況に頓着する様子もなく、どろりとした何かを纏わせたまま、再び喉の奥を強く押す。鼻の奥にむわりと広がる匂いと圧迫感が不快で、胃の中から残った内容物がせり上がってきた。瞬時に胃液交じりのそれに内側を焼かれる感覚を思い出して、ぐっと喉を締めて己の身体の動きに抵抗しようとしたけれど。

「ほら、レオ、全部吐き出しちまえ。そうすりゃ、楽ンなるからよ」

よく知った男の声が、降ってきた。
まるでその男らしくない優しげな、ザップにしては珍しい柔らかな声色で、大丈夫だ、と励ますような声が耳に伝わってくる。

そうか、吐き出してしまえば大丈夫なのか。
喉がひりつくのは嫌だけれど、ザップさんがそうすれば大丈夫だっていうなら、仕方ない。

よくよく考えるよりも先に思考に馴染んだその声に従って、あっさりと抵抗をやめたレオナルドは、ぐぷりと食道を広げて逆流してくるそれらを、身体の反射のままに吐き出してしまう。
依然として身体は熱く、張り詰めた下半身は苦しいままだ。けれど口の中のそれを、全て外に出してしまえば少しだけ、楽になった気がする。ザップが言った通りに。

二度、胃の中のものを出してしまったあと。
口の中にあった硬いものが、すっと完全に引き抜かれる。
その時になってようやく、それがザップの指だと知った。指先に纒わり付く、どろりとした濁った白に思わず顔を顰めたのは、レオナルドだけ。
ザップはちっとも気にした風もなく、文句の一つも零すことなく、傍に設置されたシャワーで指についた吐瀉物をさっと洗い流した。そのままレオナルドの方にまでシャワーヘッドが向けられ、勢いよく噴き出す水で乱雑に口の中を洗われる。

「飲めるか?」

鼻にまで入った水に咳き込みながら、げほげほと口の中の水を吐き出していると、横からペットボトルに入った水を差しだされる。
ひりつく喉の痛みをどうにかしたくって、すぐさまそれに口を寄せると、ゆっくりとペットボトルの底が持ち上げられてゆき、冷たい水が食道を通って胃に注ぎこまれていった。途中から流し込まれるスピードについて行けなくなって、口の端から飲みきれなかった水がぼたぼたと零れてゆくとようやく、唇に添えられたプラスチックが離れてゆく。
そうして息つく間もなく再び、口の中にザップの指が差し込まれる。躊躇いもなく、喉の奥まで一息に。
冷えてひんやりとした指は、硬くてしょっぱくて、ほんの少しだけ苦い。皮膚にまで染みついているのか、奥まで飲み込まされた瞬間、ふっと葉巻の甘い香りが鼻から抜けた。
ザップの、匂いだ。レオナルドが、よく知っている。
たったそれだけのことで、せりあがってくる胃液の匂いにすら、耐えられる気がした。

それからは、同じ作業の繰り返し。たっぷりと水を飲まされて、指を突っ込まれて、全て吐かされる。
途中からは固形物が混じらなくなり、水で薄まった胃液だけになっても、きりきりと腹筋が痙攣して胃がひっくり返るまで、綺麗さっぱり洗われた。
苦しくて、痛くて、しんどくて、鼻水と涙を垂らしても、無遠慮に突っ込まれる指の動きは緩んではくれない。ひくついた喉の動きと連動して、何度か噛みついてしまった気もするけれど、それでもちっとも怯むことなく侵入してくる。
合間に、大丈夫、大丈夫だと、何度も囁かれるたび、身体を巡る熱が引いてゆき、胃の中身がすっかり空になってしまった頃にはいつしか、硬く兆していた下半身も力を失っていた。
執拗に嘔吐を繰り返させられたせいで、終わったころには完全に息が上がっていて、身体がひどく重かった。ひどく疲れ切っていて、指の一本も動かしたくはない。
ぐったりとして便器に凭れ掛かっていると、頭のてっぺんから温いシャワーをかけられて、着ている服ごと洗われる。全身がびっしょりと濡れ切ったあとようやく服を脱がされても、抵抗もせずにされるがまま、濡れる服の張り付く感覚が気持ち悪いとぼんやりと考えていた。
上から下まで全て脱がされて、もう一度シャワーでざぶざぶと大雑把に洗われてから。ふわりと降ってきた大きなタオルに身体ごと包まれて、まるで小さな子供にするように尻の下から手を入れて持ち上げられてしまったけれど、既に抵抗する気力も残ってはいない。
そのまま運ばれていったのは、レオナルドの部屋のものよりも幾分か広い、柔らかなベッドの上。部屋の様子に、見覚えは全くない。
微かに顔を動かしてザップの方を向けば、ぽんぽんと頭を叩かれて、寝てろ、と素っ気ない短い言葉を告げられる。
ここがどこだか、さっぱりと分からなかったけれど。
ザップが言うなら、安全な場所なのだろうと、あっさりと納得して身体の力を抜いてベッドに沈むに任せる。
聞きたいことはあった。だけどそれは起きてからでいいと判断して、夢の淵に飛び込む直前。
最後の力を振り絞って、唇を動かす。

――ザップさん、ありがとうございます。

ちゃんと伝えたつもりだったけれど、それが上手く音になってザップの元まで届いてくれたか確認する前に。
レオナルドは、意識を手放した。