夢を見た
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夢を見た。
どんな夢だったかは、何も覚えてはいない。目覚めた途端、直前までみていたはずの映像は、霧散して綺麗さっぱりと消えてしまった。思い出そうとしても、記憶の中、欠片すらも掴めやしない。
そして軽く頭を振って眠気を飛ばしたダルニスの頭からは、夢を見ていた事実すらも急速に忘れ去られつつあった。繰り返す日常の中、いつもと変わりのないだろう一日の始まり。たかだか覚えてもいない夢に拘るような必要性を、まるで感じなかったからだ。
まだ朝日が昇る前ではあったが、猟師として生きるダルニスにとってこれくらいの時間から活動を始めるのはおかしなことではなく、当たり前のいつもの事。再び目を閉じて微睡むことなく、さっと起き出して手早く身支度を済ませ、既に朝食を食べていた父と短い言葉を交わしたあと、先に家を出てヌアル平原へと向かう。各所に仕掛けておいた罠を確認するためだ。
そうして確かめて回った本日の戦果はまずまず、悪くはなかった。いくつも設置した罠のうちの二つにかかっていた獲物を回収したダルニスは、その場で手早く処理を済ませると一旦村へと引き返す。村の酒場のマスターに、手頃な肉が手に入ったら持ってきてほしいと頼まれている。ついでに酒場で朝飯も食べてゆくか。何も食べずに家を出てきたことを思い出し、いつの間にか明るくなった空の眩さに目を細め、歩調を僅かに早めた。
予定通り、獲物をマスターへと引き渡せば、大いに喜ばれ注文する前から礼だと何品もの料理の皿を差し出された。朝食には多少多すぎるそれらをなんとか全て詰め込んで、重くなった腹を抱えて酒場を出たところで。ちょうど、家から出てきたばかりのメイと鉢合わせた。その手にバスケットを確認したダルニスは、世間話がてら声をかける。
「村長か?」
「うん。今日はサンドイッチだよ」
軽くバスケットを掲げてみせたメイがちらりと視線をやったのは、鍛冶屋の隣にある村長の家。家が隣同士という事もあって、メイやメイの母親が独り身である村長の食事を作って届けに行っているのは村の誰もが知るところだ。さして広くもない村の中、村人たちはそれぞれに助け合って生きてゆくのが当たり前のものとして根付いていて、メイたちのそれもごく自然なこととして捉えられている。
「村長の容態はもういいのか」
「まだちょっと咳が残ってるけど、大分回復したよ」
「そうか、なら良かった」
つい先日、村長は風邪をひいて寝込んだばかりで、ダルニスも見舞いにと月影の森でとれた果物を差し入れた。もうかなりの高齢である村長、軽い風邪でも患えば心配になってしまうが、どうやらメイの表情からしてもう大丈夫なようだ。
こんな時、村長に家族がいれば。ついつい、そんなことを思ってしまう。
どうやら若い頃はこの国の王とも親交があり各地で活躍していたという村長、まだダルニスが産まれる前から村のためにも尽力して来て、そのせいで嫁を迎える期を逃してしまったらしいと村人たちの噂話では聞いていた。
村長のことは、村の長として尊敬している。特に警備隊に所属してユニガンの騎士たちとやり取りするようになってからは、その好々爺然とした振る舞いからは想像もつかないほどやり手である事を知る機会が増え、ますます尊敬の念は膨らんでいた。
けれどいくらやり手であっても、年齢だけはいかんともしがたい事も分かっているから、小さな咳ひとつでもどうしたって不安になってしまう。
せめて、村長に家族がいたなら。あの広い家に、独りではなかったなら。
そこまで考えて、ダルニスはざらりとした違和感で胸の中を撫でられたような気がした。村長に家族がいない、その現状がひどくおかしなことのように思えてしまったのだ。
なぜなら、村長には、家族が。孫ほどに歳の離れた家族が、一人、いや、二人。いなかっただろうか。
「どしたの、ダルニス。難しい顔しちゃって」
「……いや、なんでもない」
けれどダルニスの中、違和感が具体的な形をとって誰かの像を描く前、きょとんと目を瞬かせたメイの言葉で、はっと現実に引き戻される。同時に、自身が抱いた違和感が逆にひどく奇妙で場違いなものに思えてしまった。
何を考えているんだ、村長に家族はいない。それ以外、ある筈ないじゃないか。
唐突に湧いた己の突飛な妄想に苦笑いを漏らして、ダルニスはメイと一緒に村長の家を訪ねることにする。もしかしたら、村長への心配が高じておかしな妄想を生み出したのかもしれないと思ったから。
村長に家族がいればいいと思う気持ちは変わらない。けれど事実、村長が独り身である現状は変わらなくって、ならば家族の分までもダルニスたちが村長の事を気にかければいい。そう考えたから。
思考を切り替えたダルニスの頭の中。幻の誰かの形が結ばれることは、もう二度となかった。
そして。
この世界のどこでもない、閉ざされた時の暗闇の中。終わりも出口も存在しない、果てのない闇に閉じ込められた二人と一匹は、ひたりひたり、押し寄せる狂気に支配され、侵されてゆく。
誰にも気づかれることなく、誰にも見つけられることなく、誰にも知られることもなく。