臆病者たちの夜
騎士として、護るべき民に優劣をつけるつもりはない。皆等しく大切な王の民であり、王の民でない者たちは尊重すべき王の客人だとも思っている。
けれど信念はそうだとして、私ではなく騎士として相対した相手でも、どうしたって特別は出来てしまう。選り好みをして贔屓をする訳ではないが、心に強く残ってしまう誰か。印象深い任務を通じて知り合った王の民たち。顔だけでなく名前もしっかりと胸に刻まれてしまって、時には騎士としての誇りや初心を思い出させてくれる存在。
その少年は、そんなラキシスの特別の、一番最初に深く鮮明に刻みつけられていた。
騎士になってから、初めての護衛任務だった。
とある商隊を、ユニガンからリンデまでの道中、護り通すこと。
同期の騎士の中では、ベルトランという唯一の例外は存在したものの、己の剣の腕が頭一つ飛び抜けている自負はあった。騎士の訓練には貴人を守るためのものもあったし、セレナ海岸に出てくる魔物や魔獣より強い魔物と既に戦ったこともある。
けれどいざその背に人の命を背負う現実に立ち合ってみれば、培ってきた自信は綺麗に吹き飛ばされて剥がれ落ち、緊張が体を支配して剣の柄に添えた指を硬くする。力みすぎてはいざという時にうまく動くことが出来ない、頭では分かっているのに、賑やかに笑う商隊の人々の声を聞けば、絶対に失敗してはならないと強い決意がぐっと心を圧迫して、どうやって力を抜けばいいのかすらも分からなくなってしまう。
「騎士の兄ちゃん、短い間だけどよろしくな!」
そんなガチガチに固まったラキシスの前に飛び出したのは、まだ声変わりも済んでいない幼い少年だった。ラキシスを見上げてにぱっと笑ってから、あれ、と首を捻って気遣わしげな色をその眼差しに乗せる。
「騎士の兄ちゃん、顔色が悪くねぇか? ……もしかして、魔物が怖いのか?」
「い、いや……」
ラキシスの胸ほどの背丈しかない子供に、まさかそんな心配をされるなんて思ってもみなかったから、咄嗟にうまい答えが返せない。その歯切れの悪さを肯定だと受け止めたらしい少年は、ぽん、と伸ばした手でラキシスの胸板を叩くと、どことなく得意げな様子でフンと勢いよく鼻息を荒くする。
「安心しなって! 騎士の兄ちゃんより、俺の方が旅には慣れてるからな。魔物が出てきたら、俺が兄ちゃんのこと守ってやるよ!」
守るのはラキシスの仕事で、少年は守られるべき立場だ。その護衛対象の相手から、しかもまだほんの子供から、守ってやるなんて言われるなんて思ってもみなかったラキシスは、驚いてぱちぱちと瞬きをしたあと。ふっと笑って、少年の頭をくしゃくしゃと撫でる。
本当なら騎士らしく、それはこちらの仕事だときちんと教えるべきだったのかもしれない。けれど可愛らしい子供に健気な心配を向けられて一気に緊張がほぐれたラキシスは、少年の頭撫でながら、その時はよろしくな、と告げれば、手のひらの下の少年が大きく何度も頷く気配があった。
ユニガンを出発してすぐ、少年が商隊の中でどんな立場にあるかは分かった。商隊のリーダーである商人の息子で、他のメンバーたちにも息子や弟のように可愛がられている。常に隊の中にはきゃっきゃとはしゃぐ子供の声と、それをからかって遊ぶ大人たちの声、そして絶え間ない笑い声が響いている。少年の名前はユーインと言うらしく、おいユーインと名前を呼ばれればすぐ、隊を組んで歩く人の間をちょこまかと器用に移動する少年の姿は、小動物のようで愛らしく自然と騎士たちの顔にも笑みが浮かぶ。勿論ラキシスも例外ではない。
商人の一団ともなればもっと抜け目ないような、油断ならない空気があるのではと思っていたラキシスの想像とはまるで違う商隊の雰囲気は一つの家族のようで、それを担う一端は間違いなくユーインと呼ばれる少年だった。
普通にゆけばユニガンからリンデまでは一日もかからない距離だったが、道程は一日では終わらない。ユニガンとリンデの間、セレナ海岸に住み着く住人相手に商売をしたあと、そこから南に半日ほど下った所にある山のふもとの小さな集落まで足を伸ばしたためだ。
地図にも乗らない小さな集落に住むのは老人がほとんどで、商隊が訪れれば歓声と共に迎えられ、そのままなし崩しに宴会へとなだれ込んだ。
共に同行した騎士たちは慣れた様子で宴会に参加していたもののさすがに酒は断っていた。ラキシスも同じように勧められた酒を辞退して、宴の隅でちびちびと果実水を飲んでいれば、酔っ払いたちから逃げてきたのかユーインがやってきてちょこんと隣に座り、果実水を一気に呷ってぷはあ、と息を吐き出した。
「今日は助かったよ」
「あぁん? なんだよ、兄ちゃん、俺が守ってやんなくても強かったじゃんかよ」
そんな少年に道中の礼を告げれば、ムッとしたように眉を寄せて不貞腐れたユーインはぷいとそっぽを向いた。
確かに、魔物が出てきた時に少年に守ってもらうような真似はしなかった。新米とはいえ騎士の端くれ、子供に遅れをとるような真似はしない。
けれど例えば、商隊の護衛で目を配るべき所だとか、舗装されていない道の歩き方、触れない方が良い草の見分け方。道中あれこれとラキシスを気にかけてちょこちょこと駆け寄ってきては、ユーインが教えてくれた商隊ならではの旅のコツは騎士団では教えて貰えなかった事も多くあって、子供の戯言と片付けるには有益すぎるその数々に助けられたのは紛れもない真実だった。
それを告げれば、ユーインはたちまち機嫌をよくしてにこにこと笑い、あれもこれもと新たな知識を披露し始める。ラキシスはうんうんと適度に相槌を打ちながら、少年の言葉に耳を傾けた。
一通り喋り終えたユーインは、果実水のお代りを取りに行ってまたラキシスの隣に戻ってくると、振り返って盛り上がる宴を見つめ目を細めると、ふふん、と胸を張ってラキシスに笑いかける。
「この村、全然儲けになんねぇんだぜ。まるまる仕入れ値で売っちまうから、ここまでの飯代と護衛代を考えりゃ大損もいいとこだ。けど爺ちゃん婆ちゃんたちだけで街まで買い出しに行くの大変だろ? だから父ちゃんたち、こっちに来たら絶対にここに寄るんだ。日持ちのする食べもんとか、必要なもんとかたっぷり準備してさ」
なるほど、ユーインの話を聞けばこの歓迎っぷりも腑に落ちる。ミグランスの国の中には他にも、地図に乗らない小さな村があちこちに点々と存在している。大抵は街道から外れていたり山奥にあったりと交易に不便な場所にあって、行商人たちが好んで足を向けるような所ではない。そこに足元を見て暴利を貪るでもない、非常に善良な商人がやってきてくれれば、宴の一つや二つ開いてやりたい気分にもなるだろう。
「わざわざ損しに行くなんてバカだって言うやつらもいるけどな、俺はすげぇかっこいいと思ってる、父ちゃんたちのこと」
少し照れくさそうに、けれど誇らしそうに、視線の先で騒ぐ酔っ払いたちを見つめ、少年は笑っていた。
「俺もいつか、そういう商人になりたい。ううん、絶対なってやるんだ」
父ちゃんたちには内緒だからな、と前置きをして耳打ちをした少年の眼差しは、強い決意と未来への希望に満ちて、きらきらと美しく輝いている。
そんな少年の横顔を見つめラキシスもまた、騎士として護りたいと願うものの形を少年の中に見つけ、じんと胸を熱くしたことを、よく覚えている。
翌日、無事にリンデまで一団を送り終えても、それで彼らとの付き合いは終わりとはならなかった。
ばらつきはあるもののおおよそ半年に一度ユニガンに訪れる商隊の護衛に、少年のご指名だと毎回ラキシスが必ず駆り出される事になったからだ。
勿論慣れで油断するつもりはなかったが、三度目、商隊の護衛には彼らが足を向ける辺境の小さな集落の様子を見て回る意味もあるのだと上官より聞かされてからは、より一層気を引き締めて任務に当たった。
ユーインはよくラキシスに懐いてくれていた、と思う。そろそろ年頃なのか、商隊の大人たちや他の騎士たちに頭を撫でられそうになれば、もうそんな子供じゃないんだ、やめろよ、と不貞腐れてその手を避けていたけれど、ラキシスは特別だと言って撫でさせてくれる。撫でられる間の満更でもなさそうな表情は、本当はまだまだ甘えたい子供の顔がちらちらと覗いていた。
何度目か、久しぶりに会ったユーインの声が低くなってからはラキシスにも簡単に撫でられてはくれなくなってしまったけれど、もうみんなと同じくらいいろんなことが出来るのに、むくれて商隊の大人たちと肩を並べたがる少年の横顔は、変わらずラキシスの可愛い弟分のままだった。
立ち寄った村で毎度のように行われる宴会、ユーインの定位置はラキシスの隣。果実水を飲みながらユーインから遠い地の旅の話を聞くのが、護衛任務の中での何よりのラキシスの楽しみでもあった。
もうそろそろ彼らがやってくる時期だろうか。そんな風に考えていたラキシスの耳に、少年の商隊が魔獣に襲われて全滅したらしい、との話が飛び込んできたのは、少年と出会って四年目のこと。ザルボーからやって来た商人によってもたらされたその情報は、ラキシスをひどく打ちのめした。
仕事で人が死ぬ場面に立ち会ったことは、もう何度もあって、ラキシス自身の命が危なかった事だってある。慣れている、とはけして言いたくはないものの、少なくとも死に直面して取り乱さないだけの騎士としての在り方は育ちちつつあるつもりだったのに、それを聞いた瞬間いてもたってもいられなくなって、気づけば商人の胸ぐらを掴んで詳しい話を聞き出そうとしていた。
慌てて周りの騎士に引き剥がされたラキシスの暴挙を、その商人はけして咎めなかった。けほけほと咳き込む彼が瞳に浮かべたのは、怒りではなく憐憫と同情、そして共感の色。
あんたの気持ち、よく分かるよ。本当に気のいいやつらだったのに、何でこんなことになっちまったんだろうな、と悲しげに長く深いため息を吐き出したその商人の声には偽りのない哀切が滲んでいて、悪夢のような話に真実味を帯びさせる。砂漠の隅にある小さな集落に向かう途中だったらしい、金にもならないあんな場所無視しちまえば良かったのに、ぽつぽつと零す商人の言葉から見える商隊の動きは、残酷なほどにラキシスのよく知る彼ららしすぎた。
ひどい誤報だと思いたかったのに、商人より数日遅れてザルボーでの任務から戻ってきた仲間の騎士が、それが本当の事だと残酷にも突きつけた。誰も生き残ってはいないらしいと、僅かな希望を抱くことすら許してはもらえない。
それでももしかして、とどこかでは思っていたラキシスだったけれど、しばらくして騎士団の任務にひっそりと、辺境の見回りが加えられた時。それまでは彼らの護衛と共に行っていたものを、それ単体で行わねばならない意味を理解した時。ようやく彼らがもうこの世には居ないことをまざまざと実感するより他なかった。王直々に与えられた任務を目の当たりにしてしまえば、どれだけ認め難くとも受け止めざるを得ない。
その日。ユニガンの酒場には、酩酊するまで浴びるように酒を流し込むラキシスの姿があった。
それから数年後のことだ。
ユニガンの街中の見回りをしていたラキシスは、ふと足を止めて驚愕に目を見開いた。
「ユー……イン?」
人で賑わう大通り、その中に死んだはずの少年によく似た横顔を見つけた気がしたからだ。
まさか、そんな筈はない。彼らは皆、死んでしまったのだ。もしも万が一生き延びていたなら、もっと早くにユニガンに顔を出していた事だろう。悲惨な惨劇からの生還者の話は、噂となってラキシスの耳にも届いていただろう。
だから、他人の空似だ。思うのに、追いかける足は止まらない。気になるものを見つけたからと同行していた騎士に断って、人混みの中に消えゆく背を追いかけるラキシスの足は自然と速くなりいつしか駆け足になっていた。
「ユーイン!」
やがて追いついたのは、彼が細い路地に入ってから。まさか、そんなはずが無い。思う心とは裏腹に、呼びかけた声には知らず無意識の確信が滲んでいる。
果たしてそんなラキシスの直感は、外れてはいなかったらしい。まるでその名に心当たりがあるかのようにぴたりと足を止めた男は、ゆっくりとこちらへと振り返った。
ユーインだ。男の顔を真正面から見たラキシスは改めて確信する。ラキシスの知るユーインよりも背は随分と伸びていて、筋肉がつきがっしりとした体格になっていたけれど、間違いない。ユーインだ。顔立ちからも子供っぽさが抜け、その精悍な顔つきは記憶の中の少年よりも少年の父によく似ていた。
ああ、生きていたんだな。みんなやられてしまったと聞いていたんだ。お前だけでも生きていてくれてよかった。
しかし込み上げる感情と共にせりあがった言葉は、声になる前に喉元でぴたりと止まってしまう。ラキシスを見つめるユーインの瞳が、昏く濁っていることに気がついてしまったからだ。
非常に遺憾ではあるけれど、親を喪った子供たちを見たことは何度もある。虚無と絶望を宿した彼らの瞳は見ているだけで胸が突かれる思いで、生半可な慰めの言葉は彼らにとって何の意味も為してはくれないのだと分かっていた。
そんな子供たちの瞳によく似ていて、けれどそれを更に煮詰めて憎悪を混ぜたような、月のない闇夜のような、見ているだけでこちらまで絶望に引き込まれてしまいそうなどろどろに濁って光を失ったユーインの瞳。復讐に燃える人間のものに似ていて、けれどそれよりもギラギラとした熱量は薄い。絶望の果てをそのまま人の目に映したようなその瞳を真正面から見てしまったラキシスは、ひゅっと息を呑む。
なあユーイン、お前に何があったんだ。
商隊が魔獣にやられてしまった事は聞いている。それにより絶望と復讐に取り憑かれて闇に身を浸しているなら、まだ理解出来た。騎士として生きてきた中で、そういった人間を何人も見てきた。
けれどラキシスの目の前のユーインは、そんな彼らとよく似ているようで、まるで違っていた。絶望だけでも憎悪だけでも説明のつかない、もっと恐ろしく深い正体不明の虚ろに囚われてしまったかのような。得体の知れないものがそこには潜んでいるような。
「ユーイン、お前は……」
ユーインから漂う空気はぞわりと背筋が寒くなるようなおぞましさを帯びていて、無意識の警戒がちりちりと心臓を締め上げる。
何を問えばいいかも分からない、けれどこのまま行かせてはならない、引き上げてやらなければならない、そんな気がして、気づけば知らず彼に向けて手が伸びていた。
「……触んな」
けれど。伸ばした指先が、ユーインに触れることはなかった。触れる直前、すいと身を引いたユーインが再会して初めて口にしたのは、拒絶の言葉。たった四文字の短い音の中に、超えられない断絶を感じ取って思わずラキシスは怯む。拗ねてむくれていた少年の反抗とは違う。きっぱりと斬り捨てる響き伴うそれにラキシスが動きを止めた隙に、くるりと身を翻したユーインはさっさと路地の奥へと進んでいってしまう。
「ユーイン!」
再度名を呼ぶも、その足が止まることはない。
やがて光の少ない路地の奥へと消えてしまったかつての少年の背中をラキシスは、彼が明確に引いてみせた拒絶の線を飛び越えて追いかける事は出来なかった。
成長したユーインが何をしているのかは、さしても経たないうちに知れた。いわく付きの武器や呪具を扱う武器商人、それが今のユーインの肩書きだった。酒場で少し話を聞けば街に現れた胡散臭い武器商人の話はいくらでも入ってきたし、ユニガンの中でも治安の悪い場所にある店に出向いては怪しい連中と取り引きをし、呪具を売り買いする彼の動向はすぐに騎士の中でも警戒対象として認識されて、情報が共有される。
初めのうちは、ユニガンに呪われた武器を広めて内側から国を蝕み弱体化を目論む他国か魔獣の手先ではないかと怪しまれていたが、その怪しげな肩書きと行動に反して彼は、けして国の不利となる行動を起こしはしなかった。請われれば呪われた武器を売り積極的に呪具を集めはしていたものの、それで不幸になった人間は不思議なことに殆ど出てはいない。無論、呪いのせいで破滅したものも幾人かはあったが、それは揃いも揃ってどうしようもない悪人ばかり。呪いの武器を手にせずとも遠からず破滅の道を辿っただろうと思われる輩に限られ、そんな輩相手ですら彼は積極的に破滅させようと望んだ訳ではなく、助けの手を伸ばした形跡すらあった。
彼の目的も、比較的早くに判明した。どうやら探している特定の武器があり、その情報を集めるために武器商人としてあちこちの街を渡り歩いているらしい。
しばらくの監視の後、騎士団により国に害意なしと判断されたユーインは、街に現れれば多少動向に注目はされるものの、最終的には他の商人とほぼ同じ扱いに収まった。
喜ばしいことだ。底知れぬ絶望をその瞳に宿しながら、けれど彼はけして堕ちてはいなかった。自棄になって無差別に人を巻き込み呪いを振りまこうとしているのではなく、何かしらの目的を持って行動している。呪いの武器を手にしながら、それに呑み込まれてしまうことなく人々に手を伸ばしてすらいる。見た目も身に纏う空気も、ラキシスの知っていたユーインとは何もかも変わってしまったけれど、父たちのような商人になりたいと決意に満ちた瞳を煌めかせていた少年の欠片をそこに見つけ、ひどく安堵したのも事実だ。
けれどそう思う一方、ラキシスはけしてユーインに声をかけることが出来なかった。
後ろめたさも、勿論あった。騎士の間でユーインが警戒対象とされた時、そんなやつではないと庇ったりはしなかった。むしろ、ひと時の再会であの瞳を真正面から見たことにより、ラキシスが誰より疑っていたように思う。疑いが晴れた後も、抱いた疑惑はずくりと胸を刺す罪悪感となって消えず残り続けている。
しかし一番の理由は、そこには無かった。
また、あの瞳で見られてしまったら。触るなと拒絶されてしまったら。そこに憎しみの断片を見出してしまったら。
けして繊細な性質ではない。多少の悪態なら鼻で笑って流せるし、一方的にやられっぱなしで縮こまって済ませる気の弱い人間でもない。やられた分はきっちりやり返さねば気が済まない方だし、ぶつかる事を恐れて信念を曲げてやるほど優しくも物分りもよくない。
けれどユーインは。かつての少年と、少年の商隊は、ずっとラキシスの中で特別なまま色褪せてはいなかった。
魔獣王が代替わりし、一層激しくなった魔獣との戦い。ユニガンのすぐ傍に魔獣たちが姿を見せるようになり、国に不安が漂う中、先代の時はこんな事なかったのにだなんて、無責任な市民の声がする。上が変わった事により明らかに質が上がった魔獣の戦力、それを相手に拮抗している王の手腕はむしろ称えられるべきであるのに、何もわかっていないやつらがひそひそと王を誹る言葉を口にする。
国を攻め落とさんとやってきた魔獣の軍を激戦の末になんとか押し戻し、仲間たちの骸もろくに拾ってやれぬまま帰ったユニガンの街、ボロボロの騎士たちを労る声の合間に、みっともない、頼りない、心無い誰かの声が響く。この国はもう終わりだなんて、酔っ払いたちが酒の肴にしたり顔で喋りちらす。
護ると決めた民たちに責めるような言葉を投げつけられ、忠誠を捧げる王の手腕まで疑うような事を言われてもなお、愚直に彼らの事を護りたいと思えるほど真っ直ぐではいられなかった。死んでいった仲間たちの代わりに、あいつらが死ねば良かったのになんて思いが脳裏を過ぎったのは一度や二度のことではない。
けれどそれでも、全ての民がそうであると決めつけて絶望することはなかったのは、記憶の底に彼らとの思い出があったから。利益にならないと分かっていても、必要とする人々のために各地をまわる人の好い彼らの姿。今代のミグランス王も素晴らしいお方だと敬意を示し、いつだって幸せそうに笑っていた彼らと、そこにいた少年の姿。
彼らの事を思い出せば、疑念に曇りかけた誓いがたちまちに輝きを取り戻す。そうだ、彼らのような人々こそ、自分の護りたかったもの。声高に悪態をつくやつらは目につきやすいけれど、その後ろにはもっと多くの、彼らのような人々が不安に怯え声も出さずに安寧を祈っている筈だ。護れなかった彼らの分まで、無辜の民を必ず護り通さなければならない。
ラキシスにとっての彼らは、護るべきものの形そのもので、象徴でもあった。
だからこそ、ユーインにこれ以上拒絶されるのが恐ろしかった。あれ以上、ユーインの瞳を覗き込むのが怖かった。記憶の奥、心の柔らかな部分に根ざした彼らと少年の瞳が、絶望と虚無で塗り替えられてしまったら、想像すればすっと腹の底が冷たくなる。
そうしていつか、誓いが疑念に飲み込まれてしまい、曇ったそれが晴れることなく、騎士としての心の在り方すら思い出せなくなってしまったら。王と姫とごく一部の仲間たち以外、どうでもいいと思うようになってしまったら。
まだまっさらで若かった時分に出会った彼らは、あまりにも深く騎士としてのラキシスの原点に結びついてしまっていて切り離すのが難しく、それを取り扱う時には普段の自身からは考えられないほど臆病で神経質になってしまう。
更には時節柄、ユーインの事に心を向けてやれる余裕もなかった。
新たな魔獣王の率いる魔獣どもは払っても払っても弱るどころか手強さを増す一方、そして戦の最中にベルトランが片目を喪ってからは、その大きすぎる穴を埋めるべく無我夢中で毎日を駆け抜けるより他なかった。ベルトランが何の相談もなく騎士団を辞するつもりだったと後から聞いた時には思わず衝動のままにぶん殴ってやったが、納得する気持ちもあった。片目ごときであの男の力が損なわれるとは思わないが、戦場でのあの男の存在がこの上もなく頼もしかったからこそ、ベルトランだけは絶対に戦場で倒れてはならない。彼の存在が国にとってあまりに大きいからこそ、万が一戦場で討ち取られてしまえば味方の士気に著しい影響を及ぼすだろうことは目に見えて分かっている。
だからラキシスはベルトランを再び前線へと引き戻す画策をすることなく、彼に背後を全て任せて魔獣と戦って戦って戦い続けた。ばたばたと同年代の騎士たちが死んでゆく中、辛うじて命を拾い続けるうちにどんどんと階級が上がってゆき、王より預けられた部下の命が増えればどうにか彼らを生還させるべくいく通りもの作戦を立て、上がった地位を妬んで足を引っ張ろうとする馬鹿は国に害をなす前に切り捨てなければならない。
目まぐるしく過ぎてゆく日々、あまりにも足りない時間の中、かつての少年に割いてやれる時間は無いに等しかった。時間がないから仕方ないのだと、臆病の言い訳に使った。
せめても、と時折、呪いの武器についての情報を部下を通じて密かに流してはいたが、あまりにも独り善がりの自己満足のそれはけして、再びユーインの前に胸を張って立つ理由を与えてはくれやしなかった。
ユーインもユーインで、もしかしてラキシスを避けていたのかもしれない。定期的に彼がユニガンに訪れたとの報告は上がるものの、ラキシスが彼と出会う事はあの路地裏での邂逅より、一度もなかった。