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実物の彼の姿を見ることなく過ぎ去った年月が両手の指をとうに越えた頃。
突然、全ての流れが変わった。
拮抗し膠着していた魔獣との戦いは年月を経てじりじりと劣勢側に傾き、ついには魔獣王率いる一軍に城まで攻め込むことを許してしまったものの、一人の青年の存在で一気に形勢が逆転した。仲間と共に彗星の如く現れた青年アルドの手により長く国を苦しめた敵の首魁である魔獣王は倒され、国には束の間の平穏が訪れる。
彼の働きはそれだけではない。魔獣王の仇を討たんとする魔獣の残党を追い払い、騎士の手の届かない民の困り事を解決してまわり、把握していなかった不穏の企みを事前に潰す。あまりにも国にとって都合のよい動きに何か思惑があるのではと警戒はしたものの、実際に彼と接してみて全ては底抜けのお人好しの善意であると知った時は、拍子抜けして笑いたくなった。
不思議な青年だった。いつの間にか彼と共にいる姿を見かけるようになったアナベルが、どこか頑なで強ばったところのあった彼女が、柔らかな笑みを浮かべるようになる。彼女と折り合いの悪かった筈の傭兵ディアドラが、気づけば彼女の背を護るように剣を振るうようになる。どう取り扱ってよいものか騎士の中でも意見が分かれていたロキドが、王よりの言葉を賜り確かに王の民と認められ徐々に民に受け入れられ始める。
まるで青年との出逢いが契機だったかのように、彼を取り巻く人々の流れが良い方へと変わり始める。停滞した空気が払拭され、新たな空気が流れ始める。
そして、それはかつての少年も例外ではなかった。
十余年ぶり、長く顔を合わせていなかったのが嘘のように、青年と共にラキシスの前に現れたユーイン。記憶の中の彼よりも、年は重ねもう少年だった名残すらも見えない彼の瞳は、真っ直ぐにラキシスの瞳を捉える。そこにあったのは絶望に侵された虚無ではなく、どこか吹っ切れたような穏やかな光。
言葉を交わさずとも、分かった。ユーインを取り巻いていた絶望もまた、かの青年との出逢いにより取り払われたのだということを。
『時間のある時でいい。少し付き合っちゃくれねぇか』
アルドたちがラキシスの元を去る間際、ユーインが口にした言葉にすぐさまうまい言葉を返せなかった。現在のユーインの憑き物が落ちたような顔を見ただけでひどく安心してしまったラキシスは、まさかユーインの方から接触してくるとは思わず動揺してしまったためだ。
けれど無言で目を見開いたラキシスに、気まずげにふいと視線をそらしたユーインが、やっぱり忘れてくれ、そう呟いて去ってゆこうとするのを気づけば引き留めていた。もしもここを逃せば、二度と彼と言葉を交わす機会が巡ってこないような予感がした。
勿論だ、今日の夜にでも、と告げた言葉はらしくもなく僅かに上擦っていたけれど、微かに緩んだユーインの目尻に自身の判断は間違ってはいなかったと、こっそりと安堵の息を吐く。
そして指定した酒場のカウンター。告げた時間より随分と早めに到着したラキシスがちらちらと入口に視線をやっていれば、こちらもまだ約束の時間よりもかなり早い時分にユーインが酒場の戸を開けて姿を見せる。すぐさまラキシスの姿を見つけて驚いたように目を瞠ってから、少し照れたように笑った彼に笑い返したラキシスの表情もまた、似たようなものだったろう。どうやらお互い随分と、この時間に特別な意味を見出してしまっているらしいと、あまりに早まった約束の時間が分かりやすく指し示している。
ラキシスの隣に腰を下ろしエールを頼んだユーインは、しばらくは何も語ろうとはしなかった。ラキシスもまたちびちびと酒を啜り、本題に触れることなくうまい料理をいくつかユーインのために注文してやるだけに留める。出された料理を口にして、悪くないな、と隣から零れた言葉にはついつい、頬が緩みそうになった。
やがてエールを三杯飲み干した頃合い、酒精で滑りのよくなった口でユーインがぽつぽつと語りだす。あの日の彼らに起こった悲劇、少年を蝕んだ呪いとその結末について。
淡々と事実だけを並べてゆくユーインの声はひどく凪いでいたけれど、予想を遥かに超えて波乱と苦悩に満ちた彼の今までにひゅんとラキシスの胃の腑が冷えてゆく。臆病に怯んだ心を守るため、彼から目を逸らした自身の過去にずくずくと胸が痛み、罪悪感が膨れ上がる。多少回っていた筈の酔いは、話の序盤で既にすっかりと醒めてしまっていた。
けれどやはり彼の運命の契機となったのは、あの青年、アルドとの出逢いだった。王と一部の騎士の間でしか知られてはいないが、国だけでなく時代すらも超えて旅をする青年、アルド。その彼の特異な旅に同行し、この時代には存在しなかった呪いを打ち破る武器を遠い過去で見つけ、ついには諸悪の根源すらも打ち滅ぼすことに成功する。穏やかな顔でアルドの事を語るユーインの横顔を見たラキシスは、かの青年に心よりの感謝を捧げた。
一通り語り終えたユーインは、身体ごとラキシスの方を向くと真面目くさった顔で頭を下げる。
「あの時は、悪かった」
「あの時?」
「……あんたは覚えちゃいねえかもしれねえが、あんたとユニガンで再会した時。あんたに、触んなっつっただろ」
「ああ、あれか……」
謝罪せねばならない心当たりはあれど、謝罪を受ける理由が何一つ思い浮かばず眉を寄せたラキシスだったが、続いた言葉にすぐにかつての邂逅を思い出す。
確かにあれは、ラキシスにとって衝撃的な出来事だった。ユーインの態度に傷ついたとも言えるかもしれない。けれどそんなもの、ユーインが抱えていた痛みに比べれば、取り上げるまでもない些細なものでしかない。
だからラキシスは小さく笑って首を振り、同じようにユーインに向き直ると深々と頭を下げる。
「気にするな。……私こそ、すまなかったな。お前に何かあったことは分かっていたのに、何も力になってやれなかった」
「何言ってんだ、あんたの手を拒んだのは俺だ! ……それに情報、流してくれてたの、あんただろ? ……バカなガキ相手には、十分すぎるくらい助けてもらったさ。感謝してる」
少し慌てた様子のユーインの声が頭の上から降ってきたが、それでも頭を上げずにいれば思いもよらぬ感謝を告げられ、思わず顔を上げてしまう。けして情報の元がラキシスだとばれぬよう細工をした筈なのに、目の前の彼には見抜かれていたらしい。ラキシスの顔を見たユーインは、俺だってそれなりにやるんだぜ? と悪戯っぽく笑ってみせる。
その、顔が。すっかりと大人になった青年の、その表情が。記憶の少年の笑顔とあまりにも変わらないままだったから、つんと鼻の奥が痛くなった。
それを誤魔化すように僅かに眉を寄せたラキシスを見て何を思ったのか、微かに眉尻を下げたユーインは視線を落とし、あー、と気まずげに唸る。そして落ち着かない様子で何度か視線をうろつかせ、しばらくの後に意を決したように顔を上げ、じっとラキシスの目を見つめると、どこか困ったように微笑んだ。
「あのな……俺を撫でてくれた手で、生きてるのはあんただけになっちまったから。忘れたく、なかった。ほんの少しも、損ないたくなかった。やつに触れさせたくなかった。鈍り始めた感覚で上書きして、奪われたくなかった……記憶だけは、俺のもんだったからな」
そしてまるで大切な秘密を語るかのごとく、潜めた声で告げられた告白に、やり過ごしたはずの鼻の奥の痛みが蘇ってくる。今度は眉を寄せただけでは誤魔化せそうにない。
上書きしたくなかったのは、ラキシスも同じだった。優しい人たちの記憶を、少年の笑顔を、青年の拒絶で上書きしてしまうのが恐ろしかった。奇しくもあの時、拒絶したユーインと追いかけることが出来なかったラキシス、二人の間に同じものが存在していたと理解して、ぐ、と喉元を熱い塊が止める間もなくせり上がる。
ここが酒場で助かった。急いで温いエールを流し込み無理やり塊を押し戻したラキシスが、杯を置くと同時。ぽり、と指で頬を掻いたユーインが、窺うように恐る恐る口を開く気配があった。
「こんなおっさんが何言ってんだって思うかもしれねえが」
立派に育った身体とは似ても似つかない、躊躇いの滲んだ声。なんだ、何でも言ってみろ。ともすれば震えそうになる声を必死に宥め、極力優し気な声色を作って先を促せば、照れくさそうな小さな声がぽつんと落とされる。
「……頭、撫でてくれねえか」
たまらなかった。すっかりと大人になった彼の中、僅かに残った少年の欠片が見えた気がして、可愛くて可哀そうで仕方なかった。頼まれなくったって、彼のことを撫でて抱きしめてやりたくって仕方なかった。頑張ったな、よくやったな、言ってやりたくてどうしようもなかった。それでも生きていてくれてありがとう、あの日告げられなかった言葉を、何度も口にしたくってたまらなかった。たまらなくって仕方なくってどうしようもなかった。
彼が口にした願いへと了承の言葉すら返す余裕すらなく、せり上がってきた感情を全て込めて無言で手を伸ばし、両手でわしわしとユーインの頭を撫でる。
少々荒っぽくなってしまったそれに、最初は驚いた顔をした彼だったがすぐにふっと表情を緩める。
徐々に体の力が抜けてゆき、喉を撫でられた猫のように気持ちよさげに細められてゆく目、やがてぴったりと閉じた瞼。
その目頭にぷくりと滲んだ水滴はみるみるうちに大きくなると、つっと鼻筋に沿って滴りおちる。それが呼び水になったように、とめどなく流れてゆく二筋の雫たち。
そうして。
光る軌跡をじっと見つめ、より一層頭を撫でる手の動きを激しくしたラキシスの頬も、いつしか熱いものですっかりと湿っていた。