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夢を見た。

珍しい。起きてすぐに薄く消えてしまった夢に、ダルニスはむっと眉を顰めた。
もう随分と長く、同じ夢を繰り返し見ては現実にまで引きずっていたダルニスにとって、忘れてしまえる夢はつかの間の安らぎのようであり、しかし一瞬でもそれを安らぎと感じた事が許せない。
毎夜、毎夜、繰り返されるのは赤で染まった夢。
幼馴染が、血溜まりに倒れ伏し息絶える夢。
それは終わらない悪夢であり、同時に。
悪夢よりもひどい、現実でもあった。

バルオキーの村に魔獣共がやってきて、フィーネを連れ去ったあの日。雨に降られカレク湿原の見回りを早めに切り上げ戻ってきたダルニスの耳に飛び込んできたのは、微かな女性の悲鳴。ただならぬ様子を感じて急いで駆けつけたのは、村の外れ、ヌアル平原へと続く道の途中。既に何人かの村人たちが集まっていて、皆一様に悲痛な表情をしていた。
その、彼らが囲む真ん中にな。血溜まりに沈むアルドの、既に事切れたダルニスの幼馴染の姿があった。

嘘だ、信じられない、信じない、信じたくない。こんなの、何かの間違いだ。だってアルドが、死ぬ訳がない。そうだ、だからあれは、アルドの血ではなくて、何か別のもので。もしあれが血だとして、回復魔法をかければ、薬を与えてやれば、まだ間に合うはず。そう、そうだ、だってアルドが死ぬ筈なんてない。そんな悪夢が、現実になる筈がない。
だから、止めるな、やめろ、触るな、やめろ、やめろ、止めるなって言ってるだろう! 早くしないと間に合わないんだ! やめろ、離せ、アルド、アルド!

赤に沈むアルドを見た瞬間からしばらくは、記憶は朧気で殆ど何も覚えてはいない。ただただ、嫌になるくらい鮮やかな赤と、焦燥だけが頭を支配していた。何も、考えることなんて出来なかった。
途切れた記憶が再び記録を始めるのは、誰かに強く腕を掴まれたところから。いつの間にか血溜まりに膝をついていたダルニスは、ありったけの回復薬を取り出してアルドの口に流し込もうとしていた。すり潰した薬草をアルドの傷口にあて、流れ出る血を止めようとその傷に首に巻いていた布を押し当ててぎゅうぎゅうと圧迫をしていた。アルドの意識を取り戻すべく、その耳に大声で何度も名前を呼びかけていた。
なのに、誰かがダルニスの邪魔をする。一刻を争う状況なのに、もうやめろ、誰かが苦しげな声でダルニスの動きを止めようとする。
邪魔をするな、力任せに掴まれた腕を振り払おうと、一瞬目を上げたダルニスの視界に飛び込んできたのは、地面に崩れ落ちて体を震わせるメイ、天を仰いでわんわんと大声で子供のように泣くノマル、両手で顔を覆うアシュティアの姿。そして村人たちに抱えるように支えられ、むせび泣く村長。集まった誰もが、悔しげに、悲しげに、痛ましげに、涙を流している。
ああ、そうなのか。それで、分かってしまった。現実が、避けられない事実が、見えてしまった。
集まった村人たちの様子をどこかぼんやりと、遠い世界の出来事のように見つめながら、ダルニスは遅まきながら理解する。理解してしまう。
アルドは、死んだのだ。もう、生き返らない。もう、喋らない。もう、笑わない。もう、動かない。もう、二度と。いくら薬を与えたって、いくら傷を塞いだって。ダルニスの手の中、冷たくなった幼馴染を取り戻すことは、けして出来ないのだ。
理解した途端、一層幼馴染の冷たさが増した気がして。噛み締めた奥歯、口いっぱいに血の味が広がった。


どうしても、許せなかった。許せないなんて言葉では生ぬるいほどに、憎くて憎くて仕方なかった。悲しみを凌駕する憎しみは、あっという間に心を焼き尽くし、虚ろに支配された全てを埋めつくす。
フィーネを連れ去ったという魔獣王とその連れ、どちらかがアルドを殺した。この世界から永遠に、アルドを奪った。許せないなんてものではない。腸が焼ききれたようにどろどろと熱く煮えたぎり、黒い澱みが尽きることなく体の中心から溢れ出す。同じ目に合わせるだけでは飽き足らない。その身を切り刻み、永遠に消えない業火にくべて塵も残さずこの世から消し去ってやりたかった。

日に日に荒んでゆくダルニスを見かねて、メイからは心配そうに声をかけられる。アシュティアには疲れた顔で窘められる。ノマルには涙まじりに懇願される。
誰も彼も、揃って同じことを言う。アルドはそんなこと望まないと。
分かっている。そんなもの、ダルニスだって嫌になるほど分かっていた。
幼い頃から共に育ってきた。下手をすれば家族よりも長い時間、アルドと一緒にいたかもしれない。無茶をするアルドを止めるのはダルニスだったけれど、時には一緒に無茶をすることもあった。いたずらをして叱られる時も一緒、楽しいことも一緒、強くなるのも一緒に。そんなアルドが言いそうなことなんてダルニスだって、よく分かっている。

そんなの、ダルニスに似合わないよ。オレはそういうこと、してほしいとは思わないよ。オレのために、誰かを恨んでほしくないよ。フィーネのことは助けてやってほしいけど、でも。絶対、オレの復讐なんて、やめてくれよな。

アルドなら、そう言う。分かっている。分かっていても、ままならない。その言葉だけは、聞いてやれない。
ダルニスの中で、あの日から、消えない憎悪がごうごうの体の中で燃え盛っている。真っ黒な炎に全てを支配され、それだけがダルニスの動力となって体をつき動かしている。もしもそれを消そうとすれば、あっという間に体は生きることを諦めてしまいそうだった。
きっと。あの日、あの血溜まりに沈む幼馴染を見た瞬間、ダルニスもまた死んでしまったのだと思う。ダルニスって何でも出来てすごいよな、幼馴染が褒めてくれた頼りになる兄貴分のダルニスは、悲しみの刃に貫かれて息絶えてしまった。残るのは憎しみに囚われた心だけ。それだけをよすがに、ダルニスは今を生きている。

やがてさしてもしないうち、後の事は全てメイとノマルに託して、ダルニスは村を出た。二度と戻らないつもりだった。
魔獣王たちを討つまでは。いいや、きっと、仇を討ったとしても。幼馴染との想い出がそこかしこに刻まれた村に戻ることは、もう二度と。
どうしても、許せなかった。許せないなんて言葉では、生ぬるいほどに憎くて憎くて仕方なかった。
魔獣も、魔獣王も。そして、その背を守ると誓ったくせに、肝心の時に何一つ出来なかった自分自身が。
ひとまとめにして刻んで殺して世界から欠片も残さず消し去ってやりたいくらい、憎くて憎くて憎くて、どうしたって赦せそうになかった。

火の消えた焚き火の傍、目覚めたダルニスは慎重に痕跡を消してゆく。
魔獣王たちの足取りを追って様々な場所を調べてゆくうち、そろそろユニガンへと大規模な魔獣の侵攻があり、その際には魔獣王も討って出るらしいとの情報を掴んだ。戦場になる可能性が高い場所は限られていて、そこを巡っては狙撃のポイントになりそうな場所を入念に下調べしている。
腰に佩くのは、あの日アルドの傍に落ちていた剣。ダルニスとメイ、ノマルにアシュティア、そしてフィーネたちで鉱石を集めて、メイの父に打ってもらったアルドの剣だ。
噂に聞く聖剣や魔剣のような特別な力のない、普通の剣。けれどアルドはひどく気に入っていて、どこへ行くにも、ちょっと村の中を歩く時にも必ず、腰に佩いていたもの。

その柄を握って、もうすぐだ、ダルニスが心の中で呟くと、やめてくれよ、悲しげに目を伏せるアルドの顔が脳裏にちかり浮かんだ気がして。
ゆっくりと目を閉じたダルニスは、全てを振り払うように瞼の裏に復讐の炎だけを赤々と宿らせた。